2013年10月31日木曜日

ああ間違い・No.9/2007.12.12

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『お嫁になってください!』

これも定番中の定番。聖書やキリスト教に関するパンフレット(業界用語ではトラクトという)配布の時に。正しくは、「お読みになってください。」

第13話 真夜中の退院パーティー/2007.12.1

明日は高橋君(仮名)の退院の日だ。その最後の夜、5号室の仲間で高橋君の退院を祝おうということになった。今まで色々な人が退院していったが、皆で退院を祝おうなどということになったのは長い入院生活でも高橋君が最初で最後だった。もっともいなせな大工の清水さんと長老の私が勝手に決めてしまったようなものだが・・・。

 もう時間は9時を回っている。消灯時間は過ぎてしまっているので部屋の明かりを消して、それぞれの読書灯をつける。明かりがもれないように部屋のドアはしっかり閉め、静かに7階から1階の自動販売機にジュースを買いに走る。それぞれがお見舞いにもらったお菓子などを出し合い、ジュースが到着して準備OK、パーティーの始まりだ。みんなから色々な思い出話が出てくる。みんな共に病気と戦った仲間なのだ。

 高橋君は腎臓の検査値に異状が認められたので、精密検査のために入院になった。腎生検という腎臓の組織の一部を取る検査を行ない、一週間ぐらいベットから動けなかったのでみんなとコミニュケーションをとりずらかったが、動けるようになったらすぐにみんなに打ちとけ、可愛がられた。結局これといった病名が分かったわけではなく、引き続き経過を見ていきましょうということになり今回の退院になったわけである。

 ときどき看護婦が夜の見回りにやってくる。ドアを開けて中をのぞいたら、寝ているはずの病人達が飲めや歌えの大騒ぎ・・・もとい みんなでジュース片手にワイワイやっているではないか。しかし「消灯時間はもうとっくに過ぎてるでしょ、早く寝なさい!」とは言わない。みんなに異状がないのを確かめて帰っていく。決してパーティーをしていることを責めたりはしないのだ。そのかわり我々も大きな声を出したり、明かりを光々とつけたりしないでいるのだ。(部屋の明かりがついていると管理室から病棟に電話がかかってきて、看護婦が注意される。)
お互いに持ちつ持たれつの麗しい関係である。

 「なんだか退院したくないなー。」と高橋君。考えてみればおかしな発言で、入院生活などは長くするものではない退屈な日々のはずだ。ではなぜ高橋君はそんなことを言うのだろう。いや実を言えば高橋君だけではなく、他の人も同じ様なことを言って退院していく。そしてなんとなくではあるが私もその気持ちが分かる一人なのである。どうしてだろうと考えてみる。勉強や仕事から開放されるから?美人の看護婦さんに二十四時間世話をして貰えるから?注射や薬が大好きだから?どれも当たらずも遠からずといったところだろうか。
 あるいは入院患者の間にお互い病気を抱えた病人なんだという意識が知らぬ間に働いているのかも知れない。ここに入院している人達は ある人は銀行員、ある人はラーメン屋の主人、またある人は大工、会社員etc・etc・・・。全くの他人の集まりなのだから、衝突などは当たり前、相手のことをよく理解するのも難しい、普通だったらバラバラになってしまうだろう。ところが実際はどうかといえば、危ないながらもなんとかやっていっている。もしかしたらお互い病気のある病人なんだという意識が、どこかでブレーキを掛けるのかも知れない。そしてそこに普通の集まりとは違うということを感じとるのだろうか。相手と自分が同じ立場だというところに安心するのかも知れない。ふっと私達と同じレベル、同じ立場になってくださった主を思い出す。
しかしなんだかんだといろいろ考えてみたが、結局名解答は得られるはずもなく、パーティーも終演に近付いていくのであった。

 次の日の朝、つまり高橋君の退院する朝、私と高橋君でかねてから計画していたあることを実行に移すことになった。今日を逃せば高橋君は退院してしまう、二人にとってラストチャンスである。その計画とは、退院する前に1階にあるレストランへ行ってラーメン・セットを食べようというものだった。

 たかがラーメンと笑うなかれ、いつも病院食の入院患者達にとってラーメンは恋慕う対象であり、離されれば離されるほど思いの募っていくものなのだ。まるでロミオとジュリエットのように。

 もとい、いよいよ決行である。エレベーターで1階に降りるとすぐにレストランがある。夜勤明けの看護婦やドクターのために朝7時ぐらいから営業されている。勇んでレストランに入り、セットメニューはトーストとラーメンの2種類と確認、意気揚々と「ラーメン・セット2つ!」と注文した。ところがけげんそうな顔をした店員のおばさんが一言「ラーメン・セットは十時過ぎからなんですけど・・・。」

 うーむ、しかし冷静になって考えてみれば当り前で、朝っぱらからラーメンを食べてやろうなんて輩はさほどいるはずもなく、広い大学病院の中でも私と高橋君だけだったらしい。
このまま帰るのもしゃくにさわるので、動揺とショックを隠して、いかにも平静を装い、「じゃ、トーストのセット2つね。」と食べたくもないトーストのセットを注文するはめになってしまった。
ロミオとジュリエットのように、私達とラーメン・セットもついに結ばれなかったのである。

 お昼過ぎ、高橋君は元気に退院していった。高橋君は、高校1年生。その時高3だった私にとっては、半年近い大学病院への入院中唯一の同年代であった。

スラバヤ通りの妹へ/2007.11.18

インターネット時代になって様々な情報が瞬時に手に入るようになった。聖書やキリスト教に関するサイトも増え、伝道の道具としても利用されるようになった。
 神学的な問題から解釈学、言語、教会史に至るまで学ぼうとする者にはどの資料にあたればいいのか情報を提供し、実際に学ぶこともできる。もちろん実際に大学の神学部や神学校などの専門機関に入学し、何年もかけて学び、神学の博士号を取ることを目指すようなことは難しいかもしれない。しかし学びたい者には以前と比べたら比較にならないほど多くの情報が早く手に入れられる時代になったのは間違いないだろう。
 聖書を学び始めると、実は面白いのだ。中世では学問といえば神学と言われたそうだが、勉強の対象として聖書を見ても実に面白い。
 ところがその面白さが罠になってしまう。解釈の方法や言語について、当時の歴史や文化と聖書の言葉使いの関係などに心を奪われてしまうのだ。それらは大切であることに間違いない。しかしキリストの姿を思い出すのだ。
 彼は「食いしん坊の大酒飲み、酒税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34新改訳)とあざけれた。だが彼こそこの世界の創り主、すべての知識と知恵の上に立つお方なのだ。その彼は罪人の中で生き、ともに食べ、飲み、彼らの話を聞き、ともに笑い、ともに泣かれた。
 本当に人を生かす知識を持っているとはこういうことなのだろう。「その知識をキリストのようになることに役立てているだろうか?」そんな視点を持ち続けたいものである。

ああ間違い・No8/2007.10.21

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『あなたたちは、ハゲています。』

結婚をする2人を祝福するために、教会員が集まったお祝いの席で。
本当は「あなた達に、励まされています」が正解。
でも幸いなことに(?)新郎新婦になる方は、禿げてはいなかったそうです。

第12話 病室のバレリーナ/2007.10.9

その娘(こ)と初めて顔を合わせたのは、私の退院もまじかに迫ったある冬の日だった。彼女のことは前から知ってはいたが、お互いの治療があったり、私は大部屋、彼女は個室ということもあって、顔と顔を合わせたことは今までなかったのだ。いつも彼女に付き添っている彼女のお母さんの招きで、初めて彼女の病室に足を踏み入れた。彼女は私より一つ年上で、当時十九歳。入院してからもう一年に近づこうとしている。高校を卒業後、専門学校に入学、その直後入院になったのだという。

 彼女のお母さんは年令よりもずっと若く見えて、ほとんどの人がお姉さんが付き添っていると思っていたほどだ。このお母さんの笑顔は愛敬があってとても好きだったのだが、一度愛敬を通り越して“ドキッ”とさせられたことがある。

 私のベットの枕元は、同級生やら教会の人やらにもらったお見舞いのぬいぐるみでいっぱいだった(何でそんなことになったかは、よくわからない・・・)。そしてまた新たに同級生が新しいぬいぐるみを持ってきた。緑色の恐竜のぬいぐるみで、背中のこぶを使って輪投げをして遊ぶことができるようになっている。入院していてたいした楽しみもない中にあって、その恐竜の輪投げぬいぐるみは、まさに突如として現われたヒーローとなったのである。
 かくて入院患者だけでなく、看護婦、補助婦、はてはお見舞いの人や医者まで巻き込んでの大輪投げ大会が始まった。みんな盛り上がって、笑ったり、拍手をしたりしていたその時、「何やってるの?」と彼女のお母さんが顔を出した。
「あ、うるさかったですか?」と私が聞くと、
「いえ、あんまり楽しそうな声が聞こえるので、何やってるのか娘に見て来てって言われたのよ。どうぞ続けて。病棟の雰囲気が明るくなるわ。」と言ったその後に
「今度は娘も仲間に入れるように元気になるから。」と言って微笑んだ。
その微笑んだ顔は、深い苦しみと戦っている人だけが作れる強さと悲しみが見えたような気がして、私は思わず彼女の顔をじっと見つめてしまった。

 娘を治したい、ただそれだけが彼女の支えだったのだろう。私の病気がリンパ性の病気だと知って、娘も同じだからとしつこいぐらい私の治療や様子を聞いてきたこともあった。それもこれもみんな、娘を元気にさせてあげたい、また普通の生活をさせてあげたいという心からだろう。いつの日か病気を完全に克服した娘の姿を心に描くことで、この母親はここまでやってきたのだ。

 彼女の病室は冬の陽射しで満たされていた。その光が差し込む窓辺に、一枚のパネルが立てかけてあった。
「これ娘なんですよ。」とお母さん。
そのパネルには、真っ白なドレスを来てバレエを踊っている彼女の写真が入れられていた。
「今はこんなだけどね。」と彼女。
治療のために髪の毛は抜け落ち、顔はパンパンにむくんでいるその姿は、パネルの中の彼女とはあまりにも対照的で、そして彼女の病気の重さを物語っている。
「また元気になってバレエするんだよね。」と彼女のお母さん。
「そうだよ、がんばらなきゃ・・・。」と私。
私のそんなありきたりの、あまり思いやりがあるとは思えない言葉に静かに微笑む彼女。治療もあまりうまくいかず、何度も何度も薬や治療の方法を変えたりしてはいるのだが、副作用だけが増えて肝心の病気のほうは一向に良くなる気配はない。そんな状況なのに、彼女の瞳はまだ完全に輝きを失っていないように思えた。それはきっと、もう一度スポットライトを一身に受け、舞台の上を自由に踊る日を心に描いていたからだろう。彼女にとってそれは大きな支えだったのだ。

 聖歌の中にも病にある娘がいる。バレエが入院していた彼女の支えだったように、聖歌の中の彼女の支え、それはイエス・キリストであった。多くの人とベットをならべ、また共に病気と闘った私にとって、聖歌の中のこの彼女の姿は深い感動をもたらしてくれる。歌詞からすると、彼女の病気は、もはや治る見込みのない病気だったようだ。しかし彼女の持っていた希望、彼女を支えていたものは、いつの日かかなうかもしれないというようなものではなく、今現実に彼女を満たし、喜びにあふれさせていたのだ。その微笑みはどんなに素晴らしく、そしてたくさんの人を慰めたことだろう。

『病の床にて 主の召したもうを 待つ娘よ
 なにゆえ 望みに 輝き微笑む
 語り告げよ
 イエスは 我のすべてなれば
 イエスは 我のすべてなれば』  (聖歌473

ああ間違い・No.7

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『うちの囚人が・・・。』

あの~奥さん…実質的には確かにそうかもしれませんけど…。
囚人じゃなくて、主人だと思うんですけど・・・。

第11話 蒼い月影/2007.9.28

「トマト食べるかい?」
 一階の売店で買ってきたばかりのトマトを私のほうに差し出しているのは三十代半ばぐらいの松山さん(仮名)だ。松山さんは私が転院してきたときには、もう入院してから一年近く経っていて、そろそろ入院二年目に入ろうかというところだった。さすが病院暮らしが長いだけあって、転院してきたばかりの右も左もわからないで困っている私にいろいろ教えてくれた。
「小学校三年になる娘がいるんだけどさー。」
一人娘のことを話す彼の顔は、自然と笑みがこぼれ、優しい顔になる。
ところが、そんな彼が同室の患者からあまり良く思われていない存在であるというのに気が付くまで、それからあまり時間はかからなかった。

 彼がトマトやその他の食べものを買ってくるのは、とりもなおさず病院の食事をあまり食べないからなのだ。
この松山さん、食事の時は「こんなものまずくて食えねぇよ。」とぶつぶつ言いながら、好きなものだけ食べ、あとはほとんど残す。最初のうちは変わっている人だと思う程度だったが、こちらも治療が始まり食べられない食事を無理してでも食べようとしているのに、
「何でこんなまずいもん出すんだ!」
「おらぁ、これは食べられないんだって、あれほど言ったじゃねぇか!」
などとすぐ側で言われれば、食べる気も余計に失せるというもんである。あまりにうるさいので、同じ部屋に入院していた人が
「一生懸命食べようとしている奴もいるんだから、文句ばっかり言ってんじゃねぇ!」
と怒鳴り上げたぐらいである。いつもこんな調子では、嫌われるのも当たり前である。

 良く思われていないのは、何も同室の患者だけではない。彼は看護婦からもあまり良く思われてはいなかった。もちろん看護婦の人達は職業なのだから、あからさまに差別するとかそんなことはないけれど、そこは人間、いつも文句と愚痴ばかりでは、嫌になるのも仕方がないことだ。

 そしてもう一つのことに気が付いた。彼と共に数か月間同じ病室で過ごしたが、その間彼のもとにお見舞いはもとより、家族すらやってこない。ちらっと聞いた話しによると、どうも入院する前から、職場でも、家庭においても、不平不満ばかりだったらしい。一度だけ奥さんが病院に来たことがあるが、お見舞いなのか、愚痴の言い合いなのかわからないような、そんな状態だった。もちろん、彼の自慢の娘さんも一度も来なかった。もっとも病院に来るために電車を乗り継いで来なければならないような遠いところに住んでいるのだから、誰かに連れてきてもらわないかぎり、小学校三年生の女の子が一人でやってくるのは難しいだろう。それに電車賃だってもらわなければならないし・・・。

 彼の病気は、急性リンパ性白血病。数年前に発病し、一時寛解にまでいたったが再発、そして今の入院になった。それからの病状は一進一退で、私が大学病院に転院してきた時分には、だいぶ落ち着いた状態であった。しかし、確実に彼の体の中では病気が進行していたのだ。ある日を境にして、病魔はその牙を剥き出し始めた。坂道を転がり落ちりボールと同じで、あとは勢いがついてゆくばかり、病状はどんどん悪化していった。

 白血病は進行すると、とても激しい痛みが全身を襲う。松山さんもあまり痛がるので個室に移されたが「いてぇ、いてぇ」というなんとも言い様のない哀れで悲しい声は、個室に移されても、変わらずに病棟に響いていた。あまりの痛みに、彼は手首を切って自殺を計ったが、病院での自殺は多少無謀だったらしく、すぐに発見され、彼の病室には監視用のテレビモニターが設置された。ところが、こんな状態になっても、誰も彼の元に来ることはなかった、友人も、家族も。一番痛みを和らげるであろう娘さんも・・・・ 。

 そんな日が何日か続いたある日、それまででは考えられないことに、松山さんの家族、親族の人たちが大挙して病院にやってきた。それはよかったと喜びたいところだが、入院している者の家族・親族が集められるということは、どんなときかということぐらい、すぐに想像がつく。数時間、待合室にタバコの煙が漂い、病室と待合室の間を行き来している人影が絶えなかった。外はすっかり陽が落ち、夕闇があたりを包み始めている。七回の病棟から見える街の灯が輝きを増していく。病状は一進一退が続いているらしい。

 夕食を済ませた私は、何気なく夜景でも眺めようと、ぶらぶらと待合室のほうに出ていった。松山さんの親戚の人たちは病室のほうに行っているらしく、人影は見当たらなかった。ふと待合室の長椅子に目を落とすと、一人の少女が長椅子に眠っている。よほど疲れているらしく、私が来たことなどまるで気が付かない。どうしたのだろう、ぐっすり眠っている彼女の幼い頬に、涙の跡がくっきりとついている。
「あっ・・・・」
思わず声を上げそうになった。その子の体操着の胸元には「松山」と書かれた布が縫い付けてあった。その子はまだ小さい松山さんの一人娘だったのだ。その涙の理由は簡単に想像できた。大人たちの勝手な理由で、お見舞いにつれてきてもらうこともできず、やっと会えた父親はいままさに死のうとしている。大人だって耐えかねる状況だ。どんな父親であろうと、彼女にとっての父親は世界でただ一人なのだ。会いたかったんだろうな・・・・、お父さんのこと好きだったんだね・・・・。お父さんはきっとそのことを知っていたから、君のことをうれしそうに話したんだろうね・・・ 。
彼女が目を覚ましたら全部夢だったらどんなにいいだろう・・・。

 言いようのない怒りとやるせなさが込み上げてくる。そこに居続けるのが何ともつらくて、そっと病室に引き返した。それから間もなく、松山さんは亡くなった。

 その夜はとてもきれいな月夜だった。何だかすぐには眠れない気分で、もう寝静まった病室の自分のベットに座り、蒼い月と星を見ていた。人の心とは何と冷たいものだろう、あんなに小さい少女さえも平気で傷つける。彼女の涙に濡れた寝顔が浮かんでくる。

 その時、一つの考えが彼女の顔を吹き飛ばした。松山さんがグチを言い、不平不満をこぼしていたときの私の心は、松山さんの親族の人たちといったいどこが違っていたというのだろう?病院のことをいろいろ教えてくれたことも、トマトを差し出してくれたときのことも、すっかりどこかに消えてしまって、不平をこぼす彼をただただわずらわしいと思っていたのではないか。何のことはない、あの小さな女の子をあんなに悲しませたものが私のうちにある。誰のせいでもなかったのだ。私のうちにあるものが、彼女をあんなに悲しませたのだ。

 一つの御言葉が心に響いた。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
 たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。
 見よ。私は手のひらにあなたを刻んだ。」  イザヤ49:16

 血のつながり、とりわけ親子の絆は切れないはずのものだ。
だが、たとえその絆が切れたとしても、決して忘れない。御言葉がずしんとくる。
十字架でイエスの手のひらに刻まれた釘の跡は、私を刻み込んだ傷跡なのだ。
月は相変わらず静かに夜空をめぐっていた。

ああ間違い・No.6/2007.9.7

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『ローマ定食』

もちろんローマ帝国って言いたかったんですよね・・・。

第10話 お見舞いについて考えよう/2007.9.6

ポーカーフェイスを辞書で引くと、「ポーカーで手のうちを悟られないように、顔の表情を表わさないようにしたことからこう言われるようになった。感情の起伏を表わさない人。無表情な顔。」と書いてある。

 渡辺さん(仮名)は、まさにこのポーカーフェイスを持っていた人である。渡辺さんは某銀行本店の部長クラスの人で、社交上においてはまさに百戦錬磨、人に接するときの物腰の柔らかさは、まさに銀行マン。そして、人を誉めるときも、意見を述べるときも、常にポーカーフェイスを崩さない。うれしくても悲しくても、すぐ顔に出てしまい、周りの人に簡単にばれてしまう私などとは大違いである。

 渡辺さんの病気はネフローゼ。腎臓の病気である。健康な人の尿には、蛋白質がそのまま出てくることはないが、疲労が高じたり、体調が悪いときには出てくることがある。これをたんぱく尿といって、この際たるものがネフローゼである。私の病気のように、強い副作用を伴う薬などは用いないので、気分が悪くなるようなことはないから、入院していても手持ちぶさたにしていることが多い。

 さて、今回の本題である。私がまだ治療の副作用で苦しんでいたとき、クリスチャン仲間が一度にたくさんお見舞いに来てくださったことがあった。ちょうど夕食時で食事が配られた頃だったろうか、全員が病室に入ることは大変なので、2~3人の組になって、一組5分ぐらいで、入れかわり立ちかわりのお見舞いになった。せっかく来てくださったのだからいろいろと話したいが、いかんせん気分が悪い。どうにか作り笑顔を浮かべて、一組また一組とやり過ごす。
やっと全員のお見舞いが終わり、ベットに横になりふっーと大きな溜め息をついたその時、渡辺さんがつぶやくように
「クリスチャンて思いやりがないねぇ。」とひとこと。
 普段具合の悪い私を見ているから、無理をしていることがわかってそう言ったのだろうが、礼儀のかたまりのような人に、しかもポーカーフェイスで話された日には、こちらに返す言葉もない。

 だが、私はその時渡辺さんの意見を素直に聞けたのである。そんなことはないんです、みんな心配して来てくださったんですよ、と思う反面、その通りだなという思いも正直あったのである。来てくださった方々を責める気などまるでないし、その人たちだけに責任があるなどとも思っていないが、その通り思ったのだから仕方がない。

 お見舞いに寄って励ましたいという思いと、大変だろうから少しお見舞いはひかえようという判断は、とても難しいものだと思う。私の乏しい入院経験では、入院してすぐというのはうれしい反面、患者さんにとって負担の多い場合が多い。考えてみれば当たり前で、具合が悪いから入院したのであって、入院してすぐ具合がいいはずもない。それに入院が長引けばだんだんお見舞いも減っていくが、そういうときにしばしばお見舞いに来てくれる人ほどその人のことを思っていてくれている人が多いように見受けられる。もっとも仕事や学校の都合があったり、退院するまでに一度でも顔を見せておかなければまずい、というような社交場のこともあるだろうから一概には言えないが・・・。

 それに食事どきもいただけない。だいたいこちらが食べているのをじっと見られていたら気持ちのいいものではない。それに大部屋などの場合、みんな食べているのに自分たちだけが話をしていれば、周りの人も食べづらいだろうし、こちらの話しも全部つつぬけである。できることなら、なるべく食事時を避け、患者さんが休憩室や面会室に出ることができるならば、そちらに出て話をしたほうがいいように思われる。

 とにかくお見舞いに来る人たちのチェックは大変厳しく行なわれる。一日中ベットの上にいて、暇を持て余しているわけだから、お見舞いに来た人の人間観察などはいい暇つぶしである。態度の良い人、悪い人というのは必ずその人たちが帰った後で病室の話題にされる。われらクリスチャンにとっては、なかなかに厳しい場所であるが、よくよく考えてみればとても良い証の場なのだ。なぜなら黙っていてもこちらをじっと見てくれているわけだ。こんなに注意して観察されるなんて、そうめったにないことだ。そこで良い証をすれば、その人が帰った後の病室で
「あの人は親切な人だ。」
「しっかりした人だ。」などと評価され、
「あの人教会の人?」となるわけである。
もっともこんな調子でうまくいくことはほとんどないけれど・・・ 。
それに証は自分でしようと思ってできるものではないので、結局はその人の信仰の歩みにかかってくるわけで・・・。
うーんお見舞いもなかなかにむずかしい。

 さて渡辺さんであるが、その後順調に回復して退院していった。きっと今でも、そのポーカーフェイスを駆使してひょうひょうと銀行界を駆けめぐっているのだろう。そうそう、大事なことを書くのを忘れたが、お見舞いに来る人たちはもちろんだが、誰よりも一番見られるのは入院している本人自身、つまり私だということを。
渡辺さんとは一ヶ月半ぐらいベットを並べたわけだが、
「クリスチャンて思いやりがないねぇ。」
と言った彼の心が、私の入院生活を見て変わったかどうか・・・・残念ながら定かではない。
入院するものなかなかにむずかしい。

ああ間違い・No.5/2007.9.5

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『体がいいね』

教会に来ていた女子高校生と若い男性宣教師との会話で。
彼女が毎日自転車で通学していると聞いたその宣教師が「(それは)体にいいですね。」と言いたかったのだけれど・・・。
まずいことに、しげしげとその彼女をながめて言ってしまったそうです。

第9話 いのちの輝き/2007.9.4

 中山さんは(仮名)少しどもる。
年の頃は三十代後半から四十代前半、寝たきりで長くいたらしくて、歩く力がなく、立ち上がるのがやっとではあるが、普段はベットの上に上半身を起こして皆と話したりと元気だった。何でも数年前に大きな病気をして命も危なかったのだが、奇跡的に回復したそうだ。どもるようになったのは、その時の後遺症で、一時は話すことすらできなかったが、懸命のリハビリでどもりながらも会話できるようになったと話してくれた。ポッチャリとした中山さんの顔と、どもった話し方が妙に合っていてなんとも可愛かったりする。

 中山さんには、奥さんと高校生と中学生の二人の娘さんがいた。奥さんは2~3日に一度は病院に顔を見せて、回りから見ても仲の良い御夫婦だった。私は中山さんとは同じ病室だから当り前だが、奥さんとも何度か話したことがある。

あるとき
「主人がいつも多胡さんのことを偉い偉いって言っているんですよ。」と言われたことがある。
もちろん、私の信仰が素晴らしいからではなく、厳しい治療にどうにか耐えているのを見てそう言ってくれるのだろう。だがそう言われて悪い気はしない。
「いえいえ、そんな・・・。」
などと両の頬がしっかり緩んでいたりして、我ながら情けない。しかし私よりも中山さんのほうが(彼の言葉を借りれば)偉いはずだ。働き盛りで、しかも一番お金のかかる時期の娘さんが二人もいるのに、動かぬ体に、そしてゆっくりとしか効果の表われてこない治療にじっと耐えているのだ。中山さんも奥さんも決して人をうらやんだりせず、むしろこんな私のようなものさえも誉めてくださる、しっかりと地に足を付けて歩いていらっしゃる方達なのである。

 ある日、中山さんが急に熱を出し、それからの日々は熱が上がっても下がることはなかった。御主人の具合が悪くなった日から奥さんは毎日、それこそ朝早くから消灯過ぎまで熱心に付き添っていた。これでは奥さんのほうが倒れてしまうのでは、と思ったが、奥さんは明るさを失わず、本当に愛し合っている姿が、おだやかさがお二人の姿にはあった。

 一か月以上も高熱が続き、中山さんの具合はさらに悪くなり、個室に移されることになった。
個室に移される日の朝、奥さんが
「また良くなってこの部屋に戻ってきますから。」と微笑んだ。
その屈託のない笑顔が、とても強く心に残った。その次の日、中山さんは亡くなった。

 数日後、中山さんの奥さんが病棟にあいさつに来た。
「どうもお世話になりました。」
病棟の薄暗い廊下ですれちがった私に、中山さんの奥さんは深々と頭を下げた。その後ろ姿を見送って病室に戻った私に、隣のベットの人が私にこう耳打ちした。
「中山さんは数年前に病気になったときから、いつ亡くなってもおかしくなかったんだって。今までよくもったって奥さんがさっきそう言ってたよ。」
 正直言って驚いた。助かる見込みがないと分かっていながら看病していらっしゃる人は、それこそごまんといるだろう。病院では日常茶飯時のごくごく当たり前のことのはずだ。だが私も私の隣のベットの人も、その事実にひどく驚いたのである。一つには中山さんがなくなる数週間前までは、とても元気で回りのものが見てもゆっくりだが良くなっているという感じがあったことと、そしてもう一つは中山さんと奥さんとの関係が実に自然で、うるわしい夫婦の輝きを持っていたからである。

 それから数年たった定期入院のときにこんなことがあった。やはり御主人が入院し奥さんが付き添っていらっしゃる御夫婦がいた。御主人が検査で病室を空けたとき、
「主人はどんな病気かもはっきりわからないんです。」
と涙でかすれた声で話してくれた。その時、ふと中山さんの奥さんのことが頭に浮かんだ。あの輝いて見えた姿の裏にも多くの涙が流されたのだろう・・・・・。あれほど愛し合っていた二人も、輝いていた二人も死の暗闇の中では輝くことができなかったのだ・・・・。

まばゆいばかりの輝きを持ちながら、それをご自分から捨てた方がいる。
「彼にはわたしたちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」イザヤ53章2節
神のひとり子でありながら、その姿を捨てることができないとは考えずに、その栄光に満ちた、輝きに満ちた御座を捨て私達と同じようになられた方。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ヨハネ 1章4節
私達クリスチャンははそのいのちを受けるものになったのだ、死の暗闇の中でも輝くそのいのちを。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10章10節

ああ間違い・No.4/2007.9.3

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『あなたは妻を持っていますか?
 もし妻があるなら、今すぐ捨ててください!
 妻はあなたと神様をへだてる壁です!』

・・・妻と罪を間違えてしまったんですね。あ、そこのあなたうなづきすぎです。
教会でのメッセージで。

第8話 一時治療終了/2007.9.1

4週間。一口に4週間といっても私が経験した中で一番長い4週間だったろう。強い治療と副作用との闘いに明け暮れ、一日一日が過ぎていくのを指折り数える。まさにそんな毎日だった。

 治療も半分を過ぎた頃、トイレに行こうとしてようやくベットから起きあがって、絶えず何かにつかまりながら廊下を歩いていくのだが、フラフラするわ、心臓はドキドキするわで一苦労だった。用を足して帰るときには、来たとき以上にフラフラして、だんだん目の前が真っ白になっていく。この感覚は、例えば・・・、そうテレビの画面を思い出していただきたい。テレビに病院の廊下が写っている。画面の上下左右からだんだんと白くなっていって、ついには全部白くなってしまう、こんな感じである。ああ、これで気を失うなと言う考えが頭の中をよぎって、ドサッと廊下に倒れ込む。そこをたまたま通りかかった医者が「どうした?」と声をかけても返事がない。あわてて脈をとり、かつぎ上げてベットに運ばれるなんてこともあった。しまいにはトイレには車椅子で行く、しかも大の時だけ、なんて制限もされたりして。余談だが、私が車椅子を呼ぶということは、トイレに行くんだなということを皆に言っているようなものだ。車椅子でトイレから帰ってきて、「気持ちよかったか」「トイレはいいだろう」なんて まるで舞台役者に声をかけるようなかけ声が飛んできて、恥ずかしいやら 照れるやら・・・・。

 とにかく、こんな調子で最初の4週間の治療が過ぎていった。それは1ヶ月ちょっと前の私には全く想像できない日々だった。治療効果は驚くものだったらしく、著しい病状の改善が見られたらしい。白血病の治療に使われる薬は多種あり、またその組み合わせによってさらに多様になる。体質との関わりもあり、なかなか効果の上がる薬にめぐり会わない人もいるというのに、自分の場合は最初から、しかも白血病治療の薬としては非常にベーシックなものでとても効果があったというのだから、不思議としか言いようがない。

 入院した頃は半袖一枚で良かったのに、いつの間にか長袖のパジャマを着ている。同級生の間では就職や進学の試験を受けた、なんていう話しもチラホラ出てきた。高3の秋である。経理の専門学校に行こうとしていた私は、ああこれで経理の学校はダメだろうなぁという、いたって軽い意識しかなかった。それよりも卒業できるかどうかが問題だった。入院が長引けば出席日数が足りなくなる。高卒ぐらいの学力は、というより高卒という肩書きぐらい持っていないと、という思いの方が正直だろう。

 いろんな思いが頭を巡る。はっきりとわかるのは、カレンダーがめくれたことと、細くなった腕と足。
 こうして一時治療は終わった。

ああ間違い・No3

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『聖書の力士について知ってますか?』

力士じゃなくって歴史!!

第7話 神様がくれた特等席/2007.8.31

治療も2週間を過ぎた頃、ひょんなことから1号室から5号室に移されることになった。何がひょんなことなのかといえば、本当は5号室に入るはずの人が、どこをどう間違ったのか1号室に入院してきてしまったのだ。それに気づいた婦長があわててその人に「5号室に移ってくれ」と話したのだが、「せっかく荷物も片づけて落ち着いたのだから動きたくない」と、だだをこねる。そこでしつこく頼めば、イヤという勇気など持っていないだろうという私に矛先が向いたわけだ。別に私が移らなくても1号室のベットはまだ空いているのだが、急な入院などのために空けておかなければならないのだろう。もちろん、その時はそんなことがわかるわけもなく、仕方なく移ることに同意したのだが・・・。

 5号室は1号室と違って、太陽の光がさんさんと降り注ぐという表現がぴったりの明るい病室だ。1号室は日当たりもあまり良くなく(第三話参照)、しかも比較的病状が重い人が入れられているので、雰囲気も暗いときてる。それに比べて、5号室には比較的病状の軽い人が入っている。そこに病状の重い奴が一人ポツンと入ってしまったわけだ。不思議なもので大部屋というのは一人でも病状の重い人がいると、それだけで部屋全体が何だか暗い雰囲気になってしまう。ミカンの箱の中に一つでも腐ったミカンがあれば、箱の中のミカン全部が腐ってしまう。ん? ちょっと違うか・・・。まあともかく、まさに私がそれになってしまったのだ。

 しかし周りの人には迷惑だったろうが、暗い病室で病気も重い人たちばかりの1号室より、明るい5号室の方がいいに決まっている。もちろん初めは、自分もせっかく慣れてきた病室を移るのはあまりいい気がしなかったけれど、それはそこ住めば都で5号室の良いところが見えてくる。それに窓際のベットだったので(窓際のベットは非常に人気があり、コンサートの席でいえばS席、舞台の最前列というところだろう)寝ているだけで、青い空を流れていく雲や、飛び交う鳥たちを見ることができた。七階だったから、ちょっとベットに起きあがると○○市の街並みも見える。まさに特等席である。

 この頃は、治療の副作用でベットにずっと寝たきりだった。不思議なもので、動こうとあがいて動けないとわかると、動こうという気持ちがなくなっていく。もちろん抗ガン剤の作用も多分にあるのだろうが、一日中ベットの上でピクリとも動かずにいても平気なのだ。星野富弘さんの詩に「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ。私のように動けないものが動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか」という詩がある。少しづつ自分の状況を受け入れ始めたのもこの頃からなのかもしれない。まてよ、そうするといろいろなあせりや思い煩いは自分の姿を正しく受け入れていないというところからきているのかもしれない。
何はともあれ、昼間は流れてゆく雲を見て、夜はまたたく星を見る。ひょんなことから始まった病室移動騒動?は、私にとっても素晴らしい環境(病院の中で素晴らしい環境もないもんだが・・・)を与えてくれる主の計画だったのである。

第6話 副作用その2/2007.8.30

強い治療による様々な副作用の中で、食事とともに心に残る副作用は脱毛だ。
治療開始から1~2週間ぐらい過ぎた頃から脱毛が始まった。もちろん、髪の毛である。治療前の説明では全部は抜けないということだったが、どうも様子が違う。朝、目が覚めてみると、枕が髪の毛でうす黒くなっている。もちろん夜中だけ抜けるというわけではなく、昼間も抜けるわけで、ベットの周りが一面髪の毛になってしまう。指先でそっと髪をさわるだけで、いとも簡単に抜けていく。一向に止む気配がない。私はそこまでにはならなかったが、ひどい人は(多分体質も関係しているとは思うのだが)鼻毛まで残らず抜けてしまうそうだ。
 あまりにひどいので、少し短く切ってもらえば周りの人にも迷惑をかけずにすむかもしれないと思い(当時は髪が長かったので)、看護婦さんに切ってもらうことにした。ケア・ルーム(頭や足などを洗ったりする設備のある部屋)に移って、看護婦さんの慣れないハサミさばきが始まった。短くしようとしてハサミを入れるのだが、それだけでどんどん抜けていく。短くするつもりが終わってみれば髪の毛はほとんど抜け落ちていた。部屋に戻って鏡に写ったのは、髪の毛はほとんど抜け落ち、パンパンにむくんだ顔。そんな自分の姿を受け入れるのは、容易なことではない。

 「髪の毛なんて気にしないでしょう?」これが大部分の人たち、そう大部分のクリスチャンの人たちの言った言葉だ。髪の毛が抜けることぐらい大したことじゃない、命と引き替えにはできないよ、と。その通りである。しかし、誰よりもそのことをよく知っているのは本人なのだ。

 今回は、抜けた 抜けない なんてことを問題にしようなんて思っているわけではない。そんなことは小さなことだろう。「気にしないでしょう?」という言葉が出てくる背景に、何か違うんじゃない?という気がするのだ。もし本当に相手のことを思いやる心があれば、そういう言葉が簡単に出てくるとは思えない。それは、その言葉を言う人の理想の姿なんじゃないだろうか。
確かに抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちても、それを別段隠さずに笑っていられる人もいる。そしてみんなはその人を明るい強い人だと思う。私もそのとおりだと思う。
しかしそうすることが難しい人たちもまたいるのだ。その人たちは髪の毛のことなど気にしない人たちよりも弱くて、劣っている人たちなのだろうか?

 私たちは相手の立場に立とうとせずに、上から押しつけるような励ましや慰めをしていないだろうか。ガンでもうすぐ死ぬのを知っていたある婦人は、「苦しんでいる時は、苦しさを知らん顔でしてみているよりも、何か余計な気休めを言うよりも、ただ「苦しいのね」といった共感の一言だけが何より価値があるのです。自分の痛み、苦しみを、誰かがわかっていてくれる。それだけでよいのです。」と語った。
 相手の立場に立つなんて簡単にできることじゃない。ただ、神でありながら人と同じ立場に立ってくださった主ご自身を、絶えず見つめ続け、教えられることによってのみ培われていくものなのだろう。

「喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣きなさい。」

「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を
 捨てることができないとは考えないで、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられたのです。」    (聖書)

第5話 副作用その1/2007.8.28

治療開始の夜が明けた。不安はあったが、いつのまにか眠ってしまったようだ。不安といったってこの時点では漠然とした不安に過ぎないのだが・・・。
 朝食後から投薬が始まった。午後からは点滴と注射。錠剤60粒以上、粉薬、水薬、点滴と注射4本、これが一日に飲んだり、打ったりしなければならない薬の量。飲み薬は食後に飲むのだが、量の多さと体力の低下で(これも副作用だけど)毎回飲むのに1時間かかった。食事をしてるんだか、薬が食事なのかわかったもんじゃない。

 これだけの量の薬を、しかも毎日毎日4週間も体の中に入れ続けるのだから、副作用はなかなかにきついものがあった。食欲減退、吐き気、口の中は口内炎だらけ、脱毛、指先のしびれ、顔のむくみ、治療後期には貧血を起こして何度も気を失いそうになり、実際廊下に倒れたりもした。絶えず気分が悪く、回りにたくさんいる美人の看護婦さんに見向きもしなくなるなんてこれは大した副作用である。

 それら数ある副作用の中でも一番まいってしまったのが食事である。多量の薬のために、食事はほとんど受け付けなくなって、食べていないのに吐いてばかり。抗ガン剤の副作用で、妊婦のようにご飯の匂いをかいだだけで吐いてしまう。仕方がないのでパンに変えてもらったりもしたが、結局食べられなかった。(だから私は妊婦の気持ちがわかる、結構貴重な男性かも知れないのである。)

 最初のうちはさっぱりしたもの、例えば果物などは食べることができたが、しばらくすると口の中が口内炎で真っ白になり、しみて食べられなくなった。まるで計ったように、毎週2キロづつ体重が減っていく。病院の食事がダメなら他のものを、と思っていろいろなものを持ってきてもらったが、治療される以前の味がしない。食べ物のありのままの味がしないのである。健康な時にあれほどおいしかったものが目の前にあるのに、同じ味がしないのだ。食べ物の味をありのままに味わえることが、どれほどすばらしいことかつくづく感じさせられた。そのせいだろうか、私は食事をとってもおいしそうに食べる食べ方をする人が大好きで、回りにいる人達も何だかおいしいなあという気分にさせるような、本当においしそうに食べる食べ方に憧れているところがある。しかし、「うん、おいしいなぁー」と感情を込めて言ってはみるのだが、私の場合はどうも今ひとつ相手にうまく伝わらないようで、わざとらしい・・・と冷たい視線を受けるのが多い。本当においしいって思ってるんだけどなー・・。

 もとい。副作用で何を食べてもおいしくなかったときに、ただ一度だけおいしいと感じたことがあった。
『幸せの黄色いハンカチ』という映画をご存じだろうか。この映画の中で高倉健氏演じる主役のこんなシーンがある。
刑務所から出てきたばかりのこの男が食堂に入って、「かつ丼とラーメンの大盛り」と注文する。やがて目の前にかつ丼とラーメンが。健さんすぐに食べ始めずに、ほんの少しの間じっとかつ丼とラーメンを見つめる。そして次の瞬間、何日も食事をしていなかったかのようにガツガツと食べ始める。うーん、この気持ちすごく良くわかるなー。病院も刑務所も同じだと言った人がいたが、入院しているほとんどの人も、やはりラーメンを食べたいと思うらしい。日本人は自由になんでも食べられなくなると、まずラーメンを食べたいと思う!!確固たるデータは何もないが、私は密かにそう確信している。
 話がずいぶん遠回りをしたが、まあ要するに私もラーメンが食べたいと思ったわけである。でも病室にどーんと出前を取るだけの勇気もなく、カップラーメンをすすることとなった。

 本当は治療中はカップラーメンなどのインスタント食品は食べてはいけないらしいのだが、とにかく今はそんなこと気にしていられない。なにもおいしいと思えなかった日々の中で、いま食べているカップラーメンはとてもおいしい。主治医の先生ごめんなさい。看護婦さんすみません。でも、おいしい。おいくし食べられるって、なんてすごいことなんだろう。

 こんなふうにおいしく食べられたのは、治療中後にも先にもこれ一度だけ。というのも、それからはもう食べること自体がとても嫌になっていったからだ。でも、あのカップラーメンによってずいぶんと元気が出たと思っているのだか、それは私のひとりよがりであろうか。神様カップラーメンをありがとうございました。

第4話 治療開始前夜/2007.4.17

マルク。ドイツの通貨単位ではない。日本語で言えば、骨髄穿刺。血液の患者には、とくにひんぱんに行なわれる検査である。検査の方法は、一言で言えばきわめて簡単。骨に針を刺して、骨の中の骨髄を取りだし調べる。これだけである。なぜ血液の病気の患者に、とくにひんぱんに行なわれるかは、血がどこで造られているのかに関係している。

 さて、血はどこで造られるか?ある方は胸を張って“心臓″と答えてくれたが、心臓は大事なポンプの役目をしているのに、血まで造らせるのは少し酷だ。“肝臓″と言う人もけっこう多い。完全な正解ではないが、ハズレているわけでもない。なぜなら、造血組織だけでは間に合わなくなると、肝臓などの一部の臓器も血を造り始めるからだ。しかし、なんといっても血液成分は、主として骨の中、つまり骨髄で造られる。したがって、血液の製造工場はどうなっているのかな、ということを調べるのがマルク、というわけである。

 などと落ち着いて書いている場合ではない。大学病院に入院して行なう検査というのは、1にも2にもこのマルクだったのである。
 ところがこの検査。痛いのなんのって・・・。マルクにまつわる話しはあげればきりがない。明日マルクをしますと言われたおばあさんが恐くて一晩中眠れなかっただとか、検査をしようとした女の子が泣き叫んでなかなか検査できないとか、まあマルクという検査がどういうものかこれだけでも伝わってくるというものである。
 私も例外ではなかった。通常マルクは腰の骨か胸の骨で行われる。私の場合どういうわけか、腰の骨からはうまくとれないので、いつも胸からということになった。それも、初めから胸でやってくれればいいものを一回腰でやってみて、できないから胸でと言うパターンが何日も続いたのである。一日に2回!これにはまいってしまった。痛さと不安で、夜になるとベットの中で声を殺して泣いていた。

 しかし恐かったマルクのおかげで、病名が確定した。
病名が確定したということは、治療方法もそれにともない決定していくということだ。大学病院に転院して5・6日経ったある日の夜、主治医に「ちょっと話しをしよう。」と病室から呼び出された。

 私の主治医は、ドクターYとドクターHの二人。この大学病院では、入院患者を二人の医師が担当する。さすが大学病院、一人の患者に二人の医師とは体制が整ってるなー、と感心する方がいると困るので説明しておくが、二人のドクターは、二人とも経験を積んだバリバリのドクターではない。一人は確かにベテランの力のある医師である。しかし、もう一人のほうは、医学部を出て試験に受かったばかりの一年生ドクターなのだ。つまり、ベテランの医師が、臨床の手解きを手取り足とり教えるための体制で、決して患者中心に考えられているわけではない。 
 
 ついでに書いておくが、私の二人の主治医は二人とも立派な髭を生やしていて、これまた二人ともなかなかにいい男だったりする。実習に来る看護学生たちは、私の主治医が髭の二人だと知ると、
「えー、かっこいいよねー○○先生!主治医なんて、いいなー!」
 ・・・・・こらこら、医者のほうに気を取られていないで、患者の心配をしなさい、患者の心配を・・・・。

 もとい、呼び出したのはドクターH、一年生ドクターのほうである。もちろんこの病気の患者を受けもつのも初めて。
なにせマルクの検査をするときに、ベットに寝ている私の耳元にそーっと顔を近づけてきて、「多胡君、マルクやるの今日初めてなんだ・・」と告白してくださった方である。
「ここじゃなんだから」と二人で病室を出て、隣の婦長室へ。偶然に婦長室が空いているからここでいいやという感じで婦長室に入っていったが、どうも今考えるとしっかり計算して、婦長室へ行こう!と決めていたようだ。例えば、イスも二つ用意されていたし、誰もいないのにドアを開けたら電気がついていたし・・・・・・ドクター稼業もなかなかに大変である。

「病名がはっきりしたので、明日から治療をします。」
「はぁ。」
「飲み薬と、点滴、注射を使います。それから、副作用が多少でるかも知れないけれど。
 例えば、吐き気がしたり、手足の指先がしびれたり、髪の毛もちょっと抜けるかも知れない。」
「全部抜けちゃうんですか!?」
「いや、全部は抜けない、少しだけだよ。それで、その治療を4週間します。」
「4週間!それが終わったら退院できますか?」
「うん、経過次第でね。」

 4週間も治療をされたら、9月も終わってしまう。高3の一番大事な時なのに・・・。どんな病気なのかよりも、退院できないということのほうが重大だ。
「まあ、明日からがんばって。」
 何気なく言ったのか、それとも明日から大変な治療を受ける私を哀れんでくれたのか知らないが、本当に歯を食いしばって耐えなければならない治療が、夜が明けるのをじっと待っていたのである。

ああ間違い・No2/2007.4.12

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『じゃ、ここに人間をみじん切りにして入れてください。』

これは定番。人間と人参。
教会のクッキング・クラスで。何でもこれを聞いた婦人たちが一瞬、さっと引いたとか・・・。

第3話 転院/2007.4.11

突然の入院から数日後、大学病院のベットが空いたという連絡があり、週が明けてさっそく転院とあいなった。8月の暑さの中を、宣教師のS兄姉の黄土色のセドリックのバンに揺られて大学病院へ向かった。この時、家にはまだ車の運転ができるものがいなかったので、S兄姉にお願いしたのだ。

 私達の目的地は大学病院の中の西三混合病棟、通称「三内」。血液と腎臓の患者専門の病棟である。混合という表現が使われているのは、病棟の隅に隔離されるようにして、結核患者の病室が2部屋あるからだ。それは7階という最上階のゆえである。

 大学病院に到着して、入院手続きを済ませると、レントゲンと心電図を撮ってから病棟に来てくれと言われたので、同行してくれた人達は先に病室にいって荷物の整理をしていてくれることになった。私は右も左も分からない大学病院の中を、案内の表示だけを頼りに、レントゲンや心電図はどこだ?・・・とまるで初めて都会に行った田舎者のようにキョロキョロしながら歩いていた。現在はさる大学病院もずいぶんと奇麗になったが、その頃のその大学病院は、まだ古い建物で、薄暗く、なんともいえない圧迫感があった。そう、いかにも病院という雰囲気を十分にたたえていた。そしてそれは、それほど深い考えでない私でさえも落ち込ませてしまうのに必要十分であった。あーあ、大学病院に入院したなんていえば病歴にハクが付くわ、なんて思ったけれど、えらい事になったなぁ・・・・・。すっかり気が滅入ってしまったが、どうにか検査を終えて、エレベーターで7階へと向かった。これから半年近くも外界に出られなくなるとは・・・・。

 私の病室は1号室。6人部屋の入ってすぐ左側のべットだ。両親、宣教師のSご夫妻、そして前橋の教会のM姉妹が、ぐるっと私のベットの回りを取り囲んでいた。荷物はもうすっかり整理されていて、後は私がパジャマに着替えるだけであった。今思えばみんな複雑な気持ちで私を見ていたんだろうなぁ。

 着替えがすんでみんなと少し話をした後、「もう帰っていいよ」と両親に言った。別段誰かいなければ困るわけでもなく、他の人も忙しい中を来てくださっているのだ、早く引き上げてもらって間違いはない。

 ところが、いざみんなが帰ってしまって、1人きりになると、さっきの気の滅入りがよみがえってくる。よーく見るとこの病室もあまり日当たりが良くなくて、まだお昼なのに薄暗い。気分を落ち込ませていくには、まさに絶好のシチュエーションだ。 いかん、いかん、少し気をまぎらわそう。ちょっと病棟の中でも散歩してみるか、と病室を出ようとしたまさにその時、矢のような勢いで看護婦がとんできた。
「どこいくの!」
「あ、ちょっと散歩でも・・・」
「ダメ、ダメ、ほらベットに戻って!」

 こちとら、自覚症状などは何もない。いたってピンピンしているわけだから看護婦の言葉に納得がいかない。おとなしい(?)性格の私にはめずらしく、しばらく食い下がったが、最後にはお願いだからと懇願されるしまつ。若くて美人の看護婦さんにそこまで言われて、なおも食い下がるほどの強い意志を私が持ち合わせているわけもなく、そそくさと病室に戻った。どうなってるのか、いったい何なんだろう。まるで喫茶店でコーヒー一杯だけ頼んだのに、「3000円です。」と言われたみたいだ。本来ならばここで、何かおかしい、自分は重い病気なんじゃないか、と疑うのが正しいのだが、そんなことは少しも疑わず(自覚症状が無いのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが)まあ検査も終わっていないし、しょうがないかと考えてしまうのが、私らしいと言えば私らしい。

1号室はナースステーションのすぐ横で、看護婦がすぐ飛んで来れる。つまり、それだけ病気の重い人が入る病室だなどという事は、もちろん知るよしもない私であった。

第2話 スタート/2007.4.4

わけがわからないまま入院になったが、そんなに重い病気だなどという事は初めから頭にないので、どれくらいで退院できるだろうかということが大問題だった。だが医者はちょっとわからないと言うばかり。
「精密検査をしてみないとはっきりわからないなー・・・。大学病院のベットが空きしだい移ってもらうから。」とのこと。大学病院!しかし、その時の純情な(?)私は、医者の言う事を素直に信じて、早く検査が終わらないかなーなどと思っていた。いやもしかしたら、本当に純情なのかもしれないな・・・。

 それでもいくらのほほーんとしている私といえども、いきなりの入院に不安にもなる。やはりそんなとき頼れるのは主のみである。どんなに自分を理解してくれる人がいたとしても、どうしても入ることの出来ない領域がある。御言葉に助けを求め、祈ることで平安を得たいと願った。『順境な時は感謝し、逆境のときは祈れ。』という言葉があるが、どちらかというとその時の私は『困ったときの神頼み』のレベルだったことはいうまでもない。そんなこと偉そうに書いてもしょうがないか・・・・。

 18の時の私はすでにバプテスマは受けていたし、高校生という見方をすればごくごく普通の高校生だったし、同年代のクリスチャン仲間の間でも特別異常ではなかったと思う(多分)。どうして自分は入院なんかになったんだろうと考えた。よく「どうして自分だけ病気になったんだろうと思わない?」と聞かれるが、他の人は病気にならなくて自分だけ、と思ったことはあまりない。どうして自分だけ、ではなく、どうして自分は病気になったのかが知りたかった。天地万物の造り主の前では、すべてに時があり偶然はないとしたらこの病気にも意味があるはずだ。自分の罪のため? これが一番しっくりくる。いかにも日本人的な発想であるが、とりあえず納得してしまうにはこれが一番だ。思いあたるふしもないわけではない。もっとも真の悔い改めはこんなものではないと思うが・・・。

 色々な考えが頭を巡った。だけどどうしても一つにまとまらない。そのくせお見舞いの人が来れば決してそんな素振りを見せないで明るく振舞う。我ながらそんな強がりをうらめしく思った。しかし、まだこの時点では不安はあってもそれほど深刻ではなかったのも事実。巷ではレストランなどで食事の後「ちょっと失礼」と言って、おもむろに薬を取り出して飲んだりする人をカッコイイ!と思う風潮があるので、自分もちょっと病気があってなどと言えば、ちょっとしたもんだな、などと不安の一方で思っていたりもしたのだから。

ああ間違い・No1/2007.3.28

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。

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『愚かな人はナスの上に家を建てます。』

そりゃ愚かだわ・・・。ナスと砂(すな)、なかなかやるね。日本語の授業中に。

第一話 はじまりのはじまり/2007.3.28

「はやく行けー!」
夏休みも終わりに近づいたこの日は母の悲鳴にも似た声で始まった。

ことのはじまりはこうである。
この春に学校で血液検査をしたときに、「軽い貧血があるから病院でちゃんと診てもらいなさい」と言われたのだ。でも学校を休んでまで検査に行きたくなかった私は(信じられないことだが私は高校生活が大好きだった)、夏休みに入ってからやっと病院に行った。それに、貧血だって言われても、自覚症状があるわけでもなく、まあときどき立ち眩みがするかなーぐらいのものだったし。学校の保健の先生だって「病院に行くのは夏休みに入ってからでいいよ。」って言ってたじゃないか・・・。

 夏休みも終わりに近づいた今日は、その検査の結果を聞きに病院に行く日だった。夏休みに入って病院へ行くのはこれで2度目・・・。昨日まで、軽井沢バイブルハウスでスタッフとして手伝いをしていた私は、疲れているのもあって「今日は病院行くのやめようかな・・・」とつぶやいた。冒頭の母の叫びは、そのわたしのつぶやきを聞いてのものだ。何もそんなに声を張り上げないでも、とぶつぶつ言いながらバス停に向かった。
それは、わたしが高校三年、18才の夏。すべての始まりだった。

病院につくと、採血をし、一応の診察をしてから、「外来の患者を診察し終わったら、ちょっともう一つ検査したいんだけど」と医者に言われた。そんなこと言ったって、こちらに断る権利があるはずもない。「してもいい?」というような聞き方をするなよな・・・。

その検査というのは、マルクと呼ばれている検査で、日本語では骨髄穿刺と言われていると思う。まあ、ぶっちゃけた話し、骨にちょっと太めの針をさして、骨の中の骨髄を取って検査するというものだ。なんだもっとたいそうな説明がいるかと思ったら、たった20数文字で説明できるじゃないか。骨に針を刺すんでしょ、骨に・・・・。何!そりゃどういうことだ!骨に針をさすだって、冗談じゃない!と言えるだけの度胸は、その時のわたしは・・・もとい、今のわたしも持っていない。

初めてのマルクは、何も考える間もなく通り過ぎた嵐のようだった。気がつくと、すごいことをされてしまったという思いで、ベットの上に冷凍マグロになりながら天上を見上げて、検査の結果を待っていた。

しばらくして医者がやってきた。
「多胡君、すまないんだけど、今すぐ入院して。」
「へっ?どうして?」
「いや入院してもらって、もうちょっと詳しく検査してみたいから。」
「・・・じゃあ、いろいろ準備したいから、ちょっと家に行って来てもいいですか。」
「ダメ!」
「ちょっと家行くだけですよ!ちゃんとすぐ帰ってきます!」
「申し訳ないけど、それはできない。すぐ入院して。」

一体何なんだ・・・。少しぐらい家に行って来たっていいじゃないか・・・。訳が分からないまま入院になった。
 そうこうしているうちに、家族の者や、教会の人が訪ねてくる。考えてみれば、その時本当のことを知らなかったのは私だけだったのだ。両親には以前から成長期にある貧血ではないかもしれないと医者がほのめかしていたらしい・・・。
 この日がすべての始まりだった。
 
その日ある姉妹がお見舞いに持ってきてくださった物の中にメモ帳があった。
入院中何かとメモする物が必要なものだ。細かい配慮感謝にたえない。
ふと、メモ帳の表紙をめくると一言こう書いてあった。
「親愛なる 浩兄
 強くあれ 雄々しくあれ」

まさにこれから始まろうとする未知の世界に入っていく私にとって、どんなに大切な言葉だったかは、その時は知る由もなかった。

愛という名のもとに/2006.11.24

「イエス・キリストは好きだが、教会やクリスチャンは好きではない。」日本の教会がなかなか成長していかない背景には人々のこんな意識があるという調査結果をよく聞く。この調査結果、わからないわけではない。確かにそう思いたくなるような教会やクリスチャンがいるのかもしれない。私たちにも反省すべき点があるだろう。

 しかしこの調査には決定的なものが欠けている。この質問に答えたクリスチャンでない人たちがイエス・キリストに対してどんなイメージを持っているのかという点だ。もし「イエスは愛の人、素晴らしい教えを残した人」程度のイエス理解であるなら、この調査結果は大した意味が無くなってしまう。それならみんなイエスが好きであろう。

 真実のイエスは私たちにこのように問いかける。「あなたは自分中心の生き方を止めて,わたしに従いなさい。自分の考えではなく、わたしの考えに従いなさい。」
 2000年前、最初喜んでイエスを迎えた人たちの多くが、最終的にはイエスを十字架につけろと叫んだ。イエスによって自分の本当の姿を知らされた時、イエスが自分の考えに合わないとわかった時、人々はイエスを殺すことをためらわなかったではないか。
 冒頭の調査を2000年前、イエスが現れた時の民衆に行ったら同様の結果が出たであろう。みなが「イエスは好きだ」と答えただろう。しかし歴史はイエスに付き合い、イエスの言葉を聞き、イエスの生き方を見た人たちの多くはイエスから離れていったことを証明しているではないか。

「イエスは好きだが、教会やクリスチャンは好きではない」と言った人たちのどれぐらいが、イエスを主として従い、イエスを愛して歩もうとした人たちだろうか。間違えてはいけない、教会やクリスチャンを愛せない人が、イエスを愛しているとは言えないということを。多くの人はイエスを好きだけれど、愛してはいないのだということを。

バスルームから愛をこめて/2006.11.24

 今妻は妊娠8ヶ月になる。もう性別もわかって男の子だそうだ。超音波写真などでは手足や顔立ちさえもはっきりとわかるようになってきた。まだ生まれてはいないけれど、立派ないのちだ。

 赤ちゃんを迎えるにあたってこれから練習しなければならないことの一つに沐浴がある。実は私はお風呂でボーっといろいろ考えるのが好きで、沐浴をさせている時にもボーっと考え事をして赤ちゃんをおぼれさせてしまう危険が多分にある。

 実はお風呂に入って色々考えるという人は少なくないようで、そんな時にいいアイデアが浮かぶということもよくあるようだ。あるシンガーソングライターの人はお風呂に入っているときにこれは!と思うメロディーが浮かび、濡れた体のまま飛び出して頭に浮かんだメロディーをテープに残した。そしてそれが大ヒット曲となったという。
 かくいう私もオリーブに提供した詩の中にもお風呂でそのアイデアが浮かんだものもある。なんかお風呂ではリラックスするのだろうか。

 そしてこの間、湯船に浸かってリラックスしている私の脳裏にある考えが浮かんだ。

[イエス・キリストは私と妻の間に与えられた、まだ生まれていないこの小さないのちのために十字架で死んでくださった。この子は生まれる前からこんなにも愛されているのだ。]

お腹の中の子供を見つめるイエス様の優しいまなざしが感じられるようだった。そして私は畏敬の念に包まれたのだ。

『あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』(聖書・詩篇139:12〜16)

他人に迷惑をかけない/2006.8.12

「他人に迷惑をかけないように、それだけは言い聞かせてきました。」
子育てについて聞かれた親がよく言う言葉だ。しかしどれぐらいの人がこの言葉、この言葉に基づいた教育や躾がもたらす結果を考えてきたのだろうか?Web上を検索してみると、意外とこの言葉に疑問を感じている方も多いようだ。

 クリスチャンとしてこの言葉に対峙するなら、まずそこにあるのは神不在の世界だ。他人に迷惑をかけなければいいのだ、神に迷惑をかけることは考えなくていい=見つからなければ、ばれなければ、何をやってもいい、ということだ。もう少し強調して言うなら、他人にばれないようにうまくやっていきなさいと勧めているようなものだ。この考えの世界では、ばれずにうまくやっていっている人が勝ち組で、見つかってしまった人は負け組だ。最近犯罪を犯した人の悪びれない態度が問題にされるが、それはこの「他人に迷惑をかけない」で育ってきたことを考えたらびっくりすることではない。犯罪を犯した多くの人にとっては、自分が悪いことをしたのではなく、下手を打った、もっと上手く立ち回れば良かったに過ぎない。「いやー次はばれないようにがんばります」ぐらいの気持ちにもなろう。なぜならばれずに上手くやっている人が他にもたくさんいるし、何よりばれなければ『他人に迷惑をかけていない』ことになるのだから。

 さらにこれは親の意識の問題を露呈させる。「他人に迷惑をかけるな」ということは「あなたが他人に迷惑をかければ、親の私が面倒なことになる」と言っているのと同じだからだ。これは『親は私の全存在を受け入れてくれている』という信頼感を損ない、『親は迷惑をかけない自分なら受け入れてくれる』というメッセージを子供に植え付けることになりかねない。そこには萎縮してしまう者、親の愛を確かめようとして他人に迷惑をかける者、自分は親に愛されているのだろうかと疑問を持つ者も出てくるだろう。

『主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。』(聖書)今こそこの言葉に真摯に耳を傾けるべきだ。人という横の関係だけでなく、神との縦の関係があってはじめてバランスがとれるということに。

神なき世界へようこそ/2006.8.5

誰が言ったか忘れたが、世界で唯一成功した社会主義国家は日本だと言った人がいた。昨日テレビのニュースを見ていると公務員の人員削減が実は形だけのものだというニュースのあとで解説員の方がこう言っていた。「お役人はしぶとい。これでは社会主義国家です。」
 そういえばかつての社会主義国家であるソ連などの東欧諸国ではクリスチャンが迫害され、多くの人たちが殉教していった。私が知らないだけで他の宗教の方たちも同様に迫害されたのかもしれない。唯物論に土台を置いた社会主義という考えの中では神は邪魔者扱いだったのだろうか。

 ならば最近起こるさまざまな心痛める事件にも納得する。日本が成功した社会主義だとしたら日本に神などいないのだから、自分のやりたいことをやって生きるのに勝る道はない。もし仮にそれを行うことによって死刑になったとしても、それをする価値があるとその人が判断したなら、それを止める権威はどこにもない。あるとしたらやられる前にやる、ということだけだ。
そこかしこからこんな声が聞こえてきそうだ。
 『犯罪を犯して捕まった人たち、残念だった。次からはもっとうまくやらないとね。ばれなきゃいいんだから。私も自分のやりたいようにやるよ、そのためにあなたに迷惑がかかっても、私には関係ないからね。捕まりたくはないから、その点はうまくやるよ。さあ神なき世界へようこそ。』

 神様.comというホームページがある。リンクのコーナーに載せておいたので見てみるといい。この方はクリスチャンではない。だが神なき世界の恐ろしさを感じている方のようだ。現代の世界、特に日本は神なき世界の様相を呈してきているのではないか。
今こそ聖書の言葉に耳を傾けることが求められる。

「若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべてのことにおいて、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」(聖書

「わたしは小さいひ」っていう子供讃美の「ひ」は「火」?「光」?「灯」?/2006.7.31

ある新聞社の治安に関する調査では、国民の74%が、自分や家族が「犯罪被害を受けるかもしれない」という不安を感じているという。1998年の同種調査では57%だったそうだから、明かに増えている。また最近は新潟の地震、そしてスマトラ沖の津波、この間の福岡での地震、もちろん地球温暖化による影響、など自然界でも不安を感じさせる要素が増えているような気もする。多くの人が世界は明るい方向ではなく、確実に暗い方向に進んでいるように感じるのも仕方がないのではないかと思う。

 姶良町と鹿児島市を結ぶ国道10号線は私の好きな道路の一つだ。湾沿いの道を雄大な桜島を見ながら走るこの道は、運転していても気持ちがいい。ただ一つ難点を言えば、時々渋滞しているということだ。ある日の夕方、この10号線を走っていたとき、しっかりと渋滞にはまってしまった。だんだんと日が落ち、車の列もポツリポツリとヘッドライトを点けていく。さらに暗くなっていくと、ほとんどの車がヘッドライトを点け、道路に沿ってライトの列が続いていく。
薄明かりではそんなに明るいと感じなかったヘッドライトも、あたりが完全に暗くなると明るさを増したように感じる。でもこれはライトの明るさが変わったのではなく、周りがより暗くなったので、ライトの明るさも増したように感じたのだ。

 聖書には私たちは世界の光だと書かれている。本当の光ならば、世界がますます暗くなっていくと感じる世界で、わたしたちの光はより輝きを増すはずだ。なぜなら光の明るさは同じでも、暗くなればなるほど、光は輝きを増したように感じるからだ。多くの人が世界が暗くなっていると感じている中、私たちの光は輝きを増している、と周りの人たちは感じているだろうか。

姶良町の「一軒目」はおいしいよね/2006.7.30

『友人から出産祝いのお礼が送られてきた。箱の中に入っているのは全国各地の多種多様なラーメン、そうラーメンの詰め合わせだ。各地のラーメンそれぞれが独特の個性があり味わいも違う。もしこのギフトに入っている各地のラーメンがみな同じ味だったら、すぐに飽きるし、感動も半減だ。だがすべて違う味なのでラーメンの奥深さや多様さ個性を楽しめるし、作り手の工夫と愛情に驚き、飽きも来ない。しかしどんなに個性的であってもラーメンはみな麺とスープと具によって構成されているという点は共通だ。だからどんなに個性的でもラーメンということでひとつの箱に入ることができ、それを受け取った人が喜ぶ素晴らしいギフトになる。』

何をラーメン賛歌をしてるって?いや、これから私は友人から贈られたラーメンのギフトセットを通して、恐らく人類史上初、理想の教会像をラーメンに例えるという偉業を成し遂げようとしているのだ。
え?わけ分からん?
じゃあこれから示すように言葉を変えてもう一度『 』の中を初めから読んでみて。
「ギフト、箱 → 教会」、
「全国各地、各地 → 一人一人」
「ラーメン → クリスチャン」
「詰め合わせ → 集まり」
「麺とスープと具によって構成されている → イエスを信じる信仰によって救われた者」

ほらね?どう?他の人にまねされないように特許申請しとこっと。

鬼の首を取ったように喜ぶ/2006.7.29

昨年末に時事通信によって配信されたニュース記事をご覧になっただろうか。ちょっと長いが引用しよう。

『放送倫理・番組向上機構(BPO)の「放送と青少年に関する委員会」(原寿雄委員長)は8日、血液型と性格などを結び付けた民放のテレビ番組について、「科学的根拠は証明されておらず、社会的差別に通じる危険がある」などとする要望を出し、事実上の改善勧告を行った。
 BPOには今年6月ごろから、「特定の血液型でいじめを受けている」など、血液型番組への批判的な意見が多数寄せられ、同委が対応を検討していた。BPOの調べでは、今年4月から11月までに特集番組が9本、番組の中で取り上げたケースが40件あり、いずれも民放だったという。(時事通信) - 12月8日21時0分更新』

 ほら!やっぱりね!この記事の一ヶ月も前にここで血液型について取り上げたでしょ?今回は私の先見の明というか、観察眼の鋭さというか、その点をアピールしまくろうと思ったんだけど、記事には『批判が【多数】寄せられた』とあるので、実は私だけが感じていたわけではないというのが逆にはっきりしてしまったわけで…。いや、もしかしたらこのエッセイを読んで気がついたのかも!!。……ないか、それは。

 それにしても『特定の血液型でいじめを受けている』というのは、人ごとじゃない。自分も「あの人はこんな人だよ」とか「あの人はこんなことしたことがある」とか聞くと、それに影響されやすい。そういうフィルターを通してその人を見てしまいがちになる。

 イエスこそ、誰にもどんな情報にも踊らされずに、まっすぐに正しく人を見ることが出来るお方だと聖書は証言する。「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」とイエスは言われたが、もしイエスが私たちの心の奥深くまで正しく理解できるなら、私たちはこの方の前では構えなくてもいいし、自分をさらけ出せる。イエスの招きは本当だろうか。ぜひ確かめていただきたい。

今年最後のつぶやき/2005.12.31

もうすぐ2004年も終わろうとしている。これを読んでいる皆さんにとって今年はどんな1年だったろうか。クリスチャンにとっては一年が終わると言うことは、それだけ創造者なる神に会う時が近づいたということだ。いやそれだけではない、すでに神の御許に召された人たちと再会する時も近づいたということだ。

母が天に召された時、握り締めていた母の手の温もりを今でもはっきりと覚えている。父のなきがらと二人だけで過ごした夜、そっと父の顔に触れた時の冷たさもこの手から消えることはないだろう。

「あなたが今日なんとなく過ごした一日は、昨日死んだ人があれほど生きたいと願った明日」。作者などは忘れたが、この言葉は忘れることなく私の心に残った。この一日は私に与えられた神からの贈り物だ。この一日を願っても得ることのできなかった人もいる。大切に生きよう。明日があることを当たり前と思うのは止めよう。そして天を見上げよう。私たちのゴールはこの地上にはない。だからこそこの地上で全てを出し切って精一杯生きることが出来る。

『中国の獄中で殉教したある伝道者の歌』という歌がある。作者は中国政府によって投獄され、拷問を受け、棄教を迫られ、そして殉教したキリスト教伝道者だ。拷問から逃れるため、ほんの一瞬だけ、目に見えるこの世界が全てだと言えば、彼の苦しみは取り去られただろう。でも彼はゴールはどこかを知っていたのだ。今年の締めくくりに(そしておそらく新年にこれを読む多くの人に)この歌を紹介しよう。

『中国の獄中で殉教したある伝道者の歌』

もしもほんの少しだけ 神の道離れたなら
私はすぐに楽になる この苦しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 十字架から目を離せば
私はすぐに楽になる この痛みも取り去られるのだろう
だけど私は主キリストを覚える 
そのお方がどれほど 忠実に苦難を忍ばれたかを
私はもうこの世の者ではない あらゆる関わりは解けたから
たとえこの道狭く苦しくても 私はこの地では旅人でありたい

もしもほんの少しだけ 神の愛に背を向けたら
私はすぐに楽になる この悲しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 神の言葉偽ったなら
私はすぐに楽になる この孤独も取り去られるのだろう
だけど私は主キリストを覚える
そのお方がどれほど 命をかえりみずに愛されたかを
私はもうこの世の者ではない あらゆる関わりは解けたから
たとえこの道狭く苦しくても 私はこの地では旅人でありたい

人が私を冷たく笑っても 私はキリストのほほえみだけを
よくやった忠実なわがしもべよ そのお言葉だけを求めてゆきたい
ちなみにこの歌はメロディーがついてます。聞きたいという人は私に言ったら歌ってあげます、アカペラで。大丈夫、わたしの歌声がどんなにあなたを絶望させても、あなたには天国の希望がある。

「血液型、がた、血が騒ぐ~」っていう歌、昔あったよね/2005.11.29

最近、いや結構前から言われるたびに嫌な言葉がある。それは「○○さん、AB型でしょう?」とか「血液型は何型?」というやつだ。特に最近は某テレビ番組の影響もあるのか、それが科学的にも正しい、絶対だというような風潮さえある。人間そう簡単に4つのタイプに分けられてたまるか!じゃあ何で「えー○○さん、AB型だと思ったのにー!」という表現も同じぐらい聞くんだ!絶対じゃないって証拠じゃないか!簡単にわかったようなことを言うな!はーすっきりした。

 思うに、他人のことに対して深く関わりたくない、面倒くさいことは嫌だから簡単に相手を理解したいという、人間関係の希薄さがそこに現れているのではないだろうか。人間そんなに単純じゃないと思うのだが。

 さらに私を不快にさせるのは、それが科学的な実験などに基づいているということを振りかざし始めたことだ。それがクリスチャンの間でも深く考えられずにまかり通っていることに不安を感じる。大体世間一般の科学は神を否定しているんじゃないの?つい最近だってテレビで堂々とダーウィンの進化論を賛美する番組やってたじゃないか。血液型による性格の違いが進化の過程で科学的に説明されるようになったら、どうするの?

 歴史を見るときに多くの神学者達が当時最先端の科学と聖書を結びつけて失敗してきた。新しい科学的な発見があったらそれらの聖書解釈や神学も古くなってしまうのだ。「神と科学を比べることはできない。なぜなら、科学は絶えず変わっていくものだが、神は変わることがないからだ。」と言ったのはノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士だったろうか。

 誤解してほしくないのだが、それらの科学的な取り組みに意味が無いなどというつもりは全くないし、クリスチャンだからこそ科学の価値も十分に認められると思う。ただ、多くの情報が氾濫する中で、漫然と受けるのではなく、しっかり考える者になりたいと思わされるのだ。

 あ、そこのあなた。こういうことを書く奴の血液型は絶対○型だな、とか思ったでしょ?25パーセントの確立で当たりです。

マニュアルとハウツー/2005.11.24

こんな話を聞いたことがある。細かいところは正確ではないので気にしないように。ある人が職場の人たちの昼食をまとめて買いに行くことになった。そして某ハンバーガーのファーストフード店に行った。そして「ハンバーガー15個」と注文したところ、「こちらでお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」と聞かれたという。その方は「俺が一人で15個もここで食べるわけがないだろう!」と怒ったという。マニュアルに書かれたとおりのことしかできないという、マニュアル信仰の弊害の良い例として挙げられていた。

しかしこれは私たちクリスチャンにとって対岸の火事ではない。世には実に多くのクリスチャンセミナー、講習会、研修会がある。内容は教会学校で教えるためであったり、カウンセリングであったりと様々である。
実はいつのまにか私たちはこの世と同じように、何か奉仕や働きをするのにハウトゥーやマニュアルを求めてしまっているのではないか?やり方を求めてしまっていないだろうか。教えられなければその奉仕はできないと思い込んでしまっていないだろうか。

最近読んだ本にアメリカのある牧師のこんな言葉があった。
「神様の働きに関する限りに、ハウトゥーというのは冒涜である。ハウトゥーがなぜ神への冒涜かというと、神のわざを人間がこうやればできるということになれば、それこそ神の御名を傷つけることだからである。」

セミナーや研修会が無用なものだと言うつもりはさらさらない。その重要性も十分承知している。しかしそんな教育を受けなければ奉仕ができないと言ってはいけないと思う。誰が主権者なのか、私たちは何を頼るかではなく、誰を頼るべきなのかを決して忘れてはいけない。

奇跡/2005.10.24

聖書には奇跡と言えるような記録がいっぱいある。モーセが紅海を分けたり、エリヤが天から火を下したり、きわめつけはイエス・キリストが三日目に復活したという記録だ。ある人たちにとって聖書の中のそのような奇跡は聖書が信頼に足る本ではないという評価につながったり、神話の世界だと考える人もいる。

 実は私にとって聖書の中の奇跡の記録はたいして大きな問題ではない。それよりもこの世界が偶然の進化によって生まれたのではなく、知性によってデザインされたもの、創造主が存在するという聖書の主張の方が大問題だ。もしそんな存在がいるとしたら、時間も空間もすべての物理的法則もその創造主のデザインなのだから、ちょっと法則を変えて奇跡と言えるような出来事を起こしたとしても別になんら不思議はない。そんな創造主がいなければ、奇跡の記録も神話として、象徴として考えればいいことだ。

 この夏私のアパートに奇跡が起こった。8月の半ば過ぎから「ひょっとしたら…」と考えるようになったが、果たしてそれは現実となったのだ。去年までのアパートのことを考えたら、そんなことが実際に起こるなんて全く信じられなかった。今まで7月、8月は最悪だったのに。「奇跡だ…こんなことが起こるなんて…」そっとつぶやいた。

 この夏私のアパートに一匹もゴキブリが確認されなかったのだ。いやゴキブリだけではない。南国に潜む狂気、タランチェラのような蜘蛛も一匹も現れなかったのだ。去年までの悪夢のような戦いから解放された私は今、この幸せをかみしめている。この幸せがシャボン玉ように儚く消えてしまうのではないかという不安を抱えながら。

 え?そんなの奇跡ではないって?
だから私にとって奇跡は大きな問題じゃないんだって。ん?ちょっと違うか…。

台風と洗濯機と私/2004.8.30

みなさんのお宅では洗濯機はどこに置いてある?室内?それとも室外?今私の洗濯機はベランダに置いてある、つまり室外である。以前住んでいた家は洗濯機を室内に置けるような作りになっていたのに、父がわざわざ改造してしまって室外に置いてあった。だから私は洗濯機が室内に置いてある家に憧れる。冬は寒くないし、洗濯機の外観はきれいだし、いちいち靴をはかなくてもいいし…。

さて、台風16号が九州を直撃した。自分が鹿児島に来てから初めての台風上陸である。もともと関東育ちの私には今まで台風はそれほど脅威ではない。雨と風がいつもより強いかなー程度だ。しかし台風がやってくる日曜日、台風の気配を感じる中教会の方達と話していると何やら雲行きが怪しい。聞かされる話はそんな馬鹿なと言いたくなるようなものばかりだ。

「洗濯機には水をいっぱいためて、ふたはガムテープなどで開かないようにすること。」私の洗濯機が屋外のベランダに置いてあるのを聞いて、こんなアドバイスを受けた。そうしないと倒れたり、飛ばされたりするらしい。うそー!洗濯機が飛ぶなんて見たことない!でもアドバイスする皆の目は真剣だ。何か天国があるよ、神様がいるよと初めて聞かされた人はこんな気分なのではないか…。
とにかく家に帰ってすぐに言われたとおりに洗濯機に水を張り、口をふさいだ。

もうご存知の通り、台風はそりゃあすごかった。私の人生最大の台風である。一人で、しかも地震のように揺れるアパートで心細いこと。しかし台風がようやくすぎて雨戸をあけると、そこには微動だにしない洗濯機が。よく耐えた、なんといとおしい我が洗濯機。

何を信じるかはとても大切だ。たとえ疑う心があったとしても、その言葉が正しければ、その通りになる。私にとって洗濯機についてのアドバイスはすぐには信じられないことだったし、本当か?と疑う気持ちもあった。しかしその言葉に従ったことによって洗濯機は難をまぬがれた。その言葉が正しい言葉だったからだ。どんなに深く信じていても、それが間違ったことだったら、その通りにはならない。

さて、なぜ私は疑う気持ちを持ちつつもそのアドバイスを受け入れたのか。それはそのアドバイスを言ってくださった人たちが信じるに足る人たちだと知っていたからだ。言っている内容はにわかには信じられないものだったが、言っているその人たちは信用できる。だから私はそのアドバイスに従って行動した。私たちが福音を伝える時に、それを聞いた人たちから同じ言葉が聞けるだろうか。あなたが言うならそうしてみようと。

あなたの若い日に/2004.8.20

準備してきた中高生キャンプが終わった。参加した学生達それぞれに悩みや苦しみがあった中で、神に愛されている、自分には価値があるということを考える良い機会になれただろうかと準備に携わった者として考える。
信仰の決断をし、神に従っていくことは今しかできない。学生から社会人になったとしてもその点は変わらない。学生のうちに従えないものがどうして社会人になってできるというのだろうか。今決断できないことが、どうして将来できるというのか。今この一瞬が神に最高のものを捧げることのできる唯一の時間なのだ。
このキャンプでその決断をした学生達に神の豊かな祝福があることを祈るばかりである。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。』Ⅱ列王記20章5節