2013年11月18日月曜日

宇宙からの帰還/2010.9.25



ずっと以前から読んでみたかったのですが、先日ブックオフで見つけて購入しました。今から25年まえに出版された古い本ですけど、月に行ったのはこのアポロ計画の宇宙飛行士しかいないので、その意味で内容は他と比べられない、時代に左右されない新しさがあるように感じます。

そんな月に行ったアポロ宇宙飛行士の中の一人ウォーリー・シラーの話は特に心に響きます。彼は宇宙空間に滞在している時に地球を眺めると、肉眼で公害が見えることに気づきます。そればかりでなくベトナムの上空では戦場で打ち合っている戦火が見えたのです。最初彼は雷だと思ったのですが、雷は必ず雲の中で光る、ところがベトナムの上空は快晴。それで戦火だとわかったのだそうです。「夜はまるで花火を見ているようで、それが戦火でなければ美しさに見とれてしまうほど美しかった」と語っています。
そしてこう語ります。
「私はこの地球という惑星から三度離れたことのある人間として言うのだが、この地球以外、我々はどこにも住む所がないんだ。それなのに、この地球の上でお互いに戦争しあっている。これはほんとに悲しいことだ。」

地デジ対応!/2010.9.22

いよいよ来年に迫った地デジ完全移行。山に囲まれ、電波が悪くアナログテレビもろくに映らない我が家は「すわ地デジ難民か!?」と思っていました。今屋根についているアンテナを取り付けに来た業者の方も「ここは地デジになったら映らないかもしれないねー」と言っていたので、ほぼあきらめの状況でした。

とにかく、電波がきているのかどうかだけでも確認しようと、総務省の地デジアンテナ&チューナーの無料貸し出しを利用してみることにしました。

申し込んでから1週間もせずにアンテナとチューナーが届けられました。とりあえず送られてきたアンテナで受信してみると、いくつかのテレビ局が映ります。これは案外いけるかもしれない[グッド(上向き矢印)] 「そういえば、たしか我が家の屋根の上にあるアンテナはUHFアンテナだったはず」と、我が家の屋根のアンテナにチューナーをつないでみてみると…なんとすべてのチャンネルをきれいに受信するではありませんか[exclamation×2]驚いたのなんの[exclamation×2]

これで電波がきていることがわかったので、とりあえずテレビを買い替える余裕のない我が家は地デジチューナーを購入することにしました。

総務省の無料貸し出しはこちら。
http://digisuppo.jp/index.php/antenna/ 

第21話 放射線治療/2010.9.7

「匂いなんてしないよ」
「いや、本当に匂うんですって、すごく嫌な匂い。」
「うーん、そういえば、○○さんも同じようなこと言ってたなー。」

また、いきなり何の会話?と思われたでしょう。
美しい花の香り、いえいえ、新製品の湿布薬、とんでもない、麗しい乙女の香り・・・すみません、行き過ぎました。実は、この会話、放射線治療を巡っての、私とドクターの会話なのだ。

苦しい投薬・抗がん剤治療が一段落して、今度は放射線治療を行なうことに。
3日おきに、計10回放射線を照射する。照射部位は、ちょうどこめかみのあたり。
その治療を行なう説明を受けるには受けたけれど、何となくちんぷんかんぷん。患者の立場の私とすれば、医者がすると言えば、白旗を振って従うのみである。なんて従順な患者なんだろう。もっとも、反対する理由は何もなかったのだけれど・・・。

私が今度放射線治療を行なうとわかると、頼んでもいないのに放射線治療に関する情報が同じ入院患者などから提供されてくる。
「胃癌などの人が、お腹に放射線をあてる治療をしたりすると、苦しくてなにも食べられなくなってしまうらしいよ。でも、頭にあてるときはたいして苦しくないらしいから。」

病院だけに、そういう情報は妙に早く耳に入るし、また場所が場所だけに何か信憑性が高いような気さえする。

そんなやりとりがされているところに、放射線科からお声がかかった。これから照射部位を決めるのだそうだ。いったい何をするのかと思えば、毎回毎回同じところに放射線を当てるために、頭に印をつけるという。普通のマジックペンで…おまけに油性である。

放射線科から帰ってきた私の頭は、坊主頭にいたずら書きでもされたかのように、黒いマジックペンの線がいくつも踊っていたのである。

「おっ、かっこいいねー」
さっそく、同じ病室の人たちから声がかかる。
もうなんでもありだなこりゃ、と私も観念しているので、
「どうせなら黒いペンじゃなくて、赤いのや青いのを使ってくださいって言ったんですけどねー」
などと開き直ってみせる。まあ、別にこんなことどうでもいいんですけど・・・。

さて、しっかりと油性で書かれたしるしのおかげで、放射線の照射も順調にすすんでいった。
ところが、だんだん治療が進んでいくうちに、初めに書いたように放射線の匂いが気になり始めたのである。医者や看護婦の説明では、絶対に匂わないというのだが、そんなことはない。確かに、外から匂ってくるというわけではなくて、鼻の奥のほうから、からだの中から匂ってくるのである。なんとも言えない、気持ちが悪くなる匂いなのだ。

これは、退院してからのことなのだが、一度だけあの放射線治療の時の匂いに遭遇したことがある。話すのも恐ろしいのだが、ある知り合いのうちで夕食をご馳走になったときに、ソーセージのスープを作ってくれたことがあった。そのソーセージを一口食べたとき・・・・、なんとあの放射線と同じ匂いがしたのである。私は思わず吐きそうになるほど、気分が悪くなってしまった。ところが、回りの人たちは平気で食べているのである。いくら私と言えど、せっかく出されたのに、放射能の匂いがするなんて言ったら、そりゃ失礼である。気持ちの悪いのをこらえて、食事を続けた。あー、今思い出しても恐ろしい。放射能汚染は私たちのみじかにまで迫ってきている[がく~(落胆した顔)] まあ、本当に放射能だったら大問題だけれどね[ふらふら]

もとい。
匂いはとうとう消えることがなかったが、放射線治療は無事に終了した。私の頭のマジックペンの線も、少しづつ消えていった。

あれから放射線治療は、匂いがするという学説が発表されただろうか。もし発表されていれば、医学界を揺るがす大発見に・・・なるわけないか・・・。
参考までにつけ加えると、あれ以来放射能の匂いがする食べ物には幸か不幸かめぐりあっていない。

画伯!/2010.9.3













昨日息子が初めて水彩絵具を使って絵をかきました。これはその作品の中の一つ。この色彩感覚と構図には脱帽[あせあせ(飛び散る汗)]
ちなみに我が家の庭だそうだ。

これ以来我が家では息子に「画伯」というアダ名をつけて呼んでおります。 

聖書は宗教ではない、と言うけれど…/2010.8.30

 福音派のグループではよく「聖書は宗教ではない。宗教というのは人間が作った神。聖書は人間をお造りになった神がご自分から掲示された、つまり人間が考え出したものでない」というような説明を聞くことがある。

確かに辞書を見ると宗教の説明に「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。」と書かれている。つまり辞書の定義で言えば、確かに聖書は人間の営みではなく、人間に対する神の営みと言ってもよいだろう。この定義であれば、確かに辞書が定義する宗教と聖書とは違うと言えるかもしれない。

 しかし、この説明、わからないわけではないが、あまりにも乱暴すぎるかなという気がするのだ。その理由は「宗教とは何か?」という共通した理解があれば成り立つが、そうでなければあまり説得力のないものになってしまうと感じるからだ。

みんなが辞書が定義しているような宗教に対する理解・定義をしているわけではないだろう。例えば「人間が作り出そうと、神が啓示しようと、超自然的な(それを神と呼んだりする)存在について扱うものは、すべて宗教である」という考えの人には、前出の説明は意味をなさない。

 さらにもうひとつの問題点は、イスラム教、ユダヤ教も啓示宗教と考えられているし、人によっては仏教までも啓示宗教だと考える人もいるということだ。その考えに従えば、これらの宗教も宗教ではない(ややこしい…)ということになってしまう。

 すると問題になるのは、「啓示された」ということが本当かどうかということ、またその内容になるのだろう。そのことを丁寧に、慎重に、謙遜に学び続ける必要があるなーと思うのだ。

阿蘇の山々は何であんなに緑なんだろう/2010.8.21


トウモロコシが食べた後ですみません…。
先日熊本の益城にある教会のキャンプに参加した時の夕食の写真です。
キャンプ会場となったのは阿蘇にあるクリスチャンの方が経営されているペンション。
こんな豪華な食事の教会キャンプに参加したことない[どんっ(衝撃)]
味もバッチリでした[手(チョキ)]

食事がすばらしかったのはもとより、キャンプに参加した教会の方たちの働きに感心し、講師のはずがたくさん教えられて帰ってきました。

ああ間違い・No26/2010.7.31

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『七面鳥の試験のために祈ってください』

ある宣教師さんがみんなにぜひ祈ってほしい、と言ったひとこと。
やっぱりさすが本場アメリカ、七面鳥をよく食べる国だけあって試験があるのか!!
それにしても日本に宣教師として来た後にも受けたい試験って…。どんなんでしょう?
やっぱり…飼育法から、さばき方、はては料理法まで含まれるの?
七面鳥のスペシャリストってわけ!?

ちなみに、この七面鳥、別名「運転免許証」と言うそうです。
『しちめんちょう』 ⇔ 『うんてんめんきょしょう』
うーん、どう考えても、そんなに似てないと思うんだけど…。

ドラえもん/2010.7.30



3歳も後半になった息子の練習のために、息子用のお財布を作りました。
毎月100円というおこづかいを設定し、それを毎月息子の目の前で息子の財布に入れます。
「これはあなたのお金だから、自由に使ってもいいよ。でも、使ったらなくなってしまう。何を買ったらいいかよく考えて使いなさい。」と説明しながら。

写真はそのおこづかいで、息子が何を買うか考えて、はじめて自分のお財布から買い物をしているところです。
彼が考えた末に買うことに決めたのは「ドラえもん」のコミックでした。
でも当然新品は100円では買えません。そこでブックオフを何件か回って、やっと息子のおこづかいで買えるものを見つけることができました。

消費税分の5円は親がサポートしてあげました[目] 

神はサイコロを投げたか/2010.7.29



手軽に読めます。アマゾンで中古で買えるので、一読を。

明日から子供キャンプ/2010.7.26

明日から一泊二日で小学生キャンプです。毎年のことですが、半分楽しみ、半分年齢による体力の衰えを感じるイベントでもあります[もうやだ~(悲しい顔)]
今年も30名を超す参加申し込みがありました。暑い日が続いていますが、ケガや病気、事故もなく良いキャンプになりますようお祈りください。

なお来週は中高生キャンプです。参加者募集中です。

それから再来週は熊本の木山キリスト教会の青年キャンプに呼ばれています。キャンプ続きだ…。 

今日もよく降る/2010.7.22

今日の午後出かけたときの桜島。今日の4度目の噴火で火山灰を噴き上げているところです。ここ何日かは風向きの関係で、鹿児島市や姶良市の方面に灰が降っているようで、車の灰を落としても、数時間後にはまた灰だらけ[もうやだ~(悲しい顔)]
何か降灰の話題が多いな…、このブログ…。


トイ・ストーリー3/2010.7.15

見てきました。「トイストーリー3」。息子がトイストーリーの大ファン、特にバズ・ライトイヤーの大ファンなので、公開をずっと楽しみにしていました。親としては3Dを見たかったのですが、絶対息子は怖がるという確信があったので、通常版(2D)にしました。

感想ですが、とても良かったです[わーい(嬉しい顔)]。個人的には1と2よりも良いお話だと思います。映画館で見るもよし、DVDが発売されてからレンタル(買わないのか!)するもよし、家族みんなで楽しめ、そしてちょっぴり考えさせられる内容です。

と感想を書こうとしたら、こんな記事が…。ご参考までに。

気持ちを引き締めて/2010.7.6

鹿児島に来て以来、ずっと協力して働いていたナタリー宣教師が、ホームアサイメントのため帰国しました。来年の2月に日本に戻ってくる予定ですが、戻ってからは鹿児島ではなく、佐世保ローアバプテスト教会で働くことになっています。教会も私たち家族も今まで本当にたくさん助けられました。来年からの佐世保での働きが祝福されますように。


社会経験/2010.6.25

牧師のようなフルタイムの働き人になるために社会経験は必要か?という話しはよく聞くところだ。
これには様々な意見があるだろう。

「社会経験がなければフルタイムの働きはできない」と言うのは言いすぎだろう。神の召しは一人一人違うのであって、社会経験は絶対条件ではない。神がその人を召されるときには、社会経験を経てからもあるだろうし、学生からすぐにという場合もあるだろう。問題は召しが確かなものであるかどうか(それは主観的なことだという意見もあるだろう)が重要なのであって、社会経験があるかどうかではない。それに社会経験を経た方たちはみんな働き人として成功し、素晴らしい成果を挙げているということでもないだろう。
しかし、一人一人に神の召しが違うのならば、「社会経験をしたほうがいい」という選択肢を全く退けてしまうことも極論であろう。確かに「この人の場合は社会経験をしたほうがいい」と思える人もいるわけだし。

以前にも同じような相談を受けたことがあるが、そんな学生たち(社会経験を経ずにフルタイムの働き人になる、なろうとしている人)には、「自分は社会経験がほとんどないので、わからない部分、例えば企業や団体の中で戦い悩んでいる方の気持ちがわかりにくい部分もあるかもしれない。」と考える謙遜さをもって欲しいと思う。神に召されたのだから、私は大丈夫と思ってほしくはないのだ。
むろん「自分は社会経験を経てから働き人になったので大丈夫だ」というのも、反対の意味で謙遜さが不足していることだが…。

社会経験を経ても、経なくても、働き人として自分には不足していることろ、わからないところ、経験不足のところが多々ある、教えられていかなければならない者である、そんな視点・姿勢を忘れないようにしてほしいのだ。もちろん自分も含めて。

ああ間違い・No.25/2010.6.21

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。

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『そのセーター、よく臭いますね。』

ええ、もう一週間も着た切り雀ですから。
そんなに臭うならそろそろ洗濯しましょうか…って、おい!
このセーターは買ったばかりなの! に・あ・い・ま・す!


 

おしいれのぼうけん/2010.6.21


先日NHK教育テレビの「おはなしのくに」で、この絵本が取り上げられてました。
自分が小学生の時に買ってもらった、おそらく初めての絵本でした。
なつかしい。
いつか自分の子ども達にも読んであげたいです。

報告/2010.6.14

ブログを見てくださっている方のために報告です。
2人目の子どもが与えられました[目]
予定日は来年の1月だそうです。
なので妻は今の時期は胃がムカムカするらしく、横になっていることが多いです。 

熱は下がりました/2010.5.28

40度を越す熱を出していた息子ですが、先日の日曜日には7度台になり、今は治まりました[わーい(嬉しい顔)]
少し痩せたかな?そしてちょっと体力を奪われたのか、昼寝の時間や、夜寝る時間が早くなったようです。

2013年11月14日木曜日

初めて見たかも…/2010.5.21

昨日から息子が熱を出してます。
一昨日ぐらいから頬が痛いと言い出して、昨日は39度2分ぐらいまで熱が上がりました。
病院で薬をもらってきたのですが、今日もずっと38度から39度の熱がありました。

そして今日寝る前に体温を測ってみると40.2度[exclamation]
デジタル体温計で40度越えは初めて見たかも…。
デジタル体温計って40度越えると数字が点滅するんですね[あせあせ(飛び散る汗)]


頬が痛いと言うし、そういえばちょっとだけ頬が腫れてる?ようにも見えたので、おたふく風邪か?と思いましたが、病院では「のどが荒れている」ということで抗生剤をもらいました。
さすがに高熱が続いて少しまいっているようです。 

Life is beautiful/2010.5.20



DVD持ってます[CD]
これを最初に見たときは、まだ結婚前で、当然息子もいなかったわけですが、今見たらどんな気持ちになるんだろうと…。なので今はちょっと見れない映画です[ふらふら]

あ、もちろんまだ見ていないという人にはお勧めです。

灰は灰/2010.5.12

今年に入って、もう500回ですか…
そうですか…

これは先日、わずか10分たらずで灰だらけになった愛車です。



それからこの写真。
我が家のすぐ横を走っている九州自動車道。
ちょっとわかりにくいんですが走っている車が、まるでサバンナを走るラリー車のように埃をあげてます。
ま、埃ではなく灰なんですけど…

第20話 今を生きる/2010.5.11

ニコッと笑いながら、山本(仮名)さんが病室に入ってくる。初めて見る人は、ちょっとびっくりするだろう。いやいや決して山本さんの笑顔がひどすぎるなんてことではない。山本さんの頭は、見事に照り輝いているのである。とってもきれいな坊主頭。(坊主頭にきれい、汚いがあるかどうか知らないが・・・)

もしかしてお坊さん?と思いたくなるが、残念ながらお坊さんではない(別に残念ではないか・・・)。坊主頭が趣味・・・もとい、この人も治療のために髪の毛が全部抜けてしまった人なのだ。その山本さんが、同じく治療中で髪の毛がまったくない坊主頭の私のところにお見舞いに来てくれたわけである。うーん、二人の坊主頭の青年が親しく語り合う姿は、あんまり想像したくない絵柄のような・・・・。

青年と書いたが、この山本さん、工業大学の学生で、私がこの大学病院に転院してくるちょっと前にこの病棟を退院したのである。つまりわたしの先輩 (病棟のね)なのである。私と同じような血液の病気だったと思うが、この人の治療中の様子を聞くと、もうそれはそれは壮絶であって、私のほうが少しはいいかなーとさえ思えてくる。髪の毛はもちろん、体中の毛という毛、鼻毛まですべて抜け落ちて、薬のせいで腕を上げることすらできなくなったらしい。まばたきすら大変だったというのだから、もうそれってどんな世界?という感じである。

どうしてそんな彼と知り合うようになったかというと、当時この大学病院では私の知り合いのクリスチャンの看護婦の方たちが何人か働いていて、その中の一人の方が、山本さんを連れて私のところにお見舞いに来たのである。なぜ彼女が彼を連れてきたのか、その理由をはっきり覚えていないのだが、同じような治療をした者だから私の気持ちが良くわかるだろうということと、二人が同じような病気になった者同士で、聖書や信仰の話ができたらと思っていたのだと思う。

その後も、病院に検診に来るたびに、病棟まであがってきてくれて、私のところに顔を見せてくれた。私が大学病院での治療を終えて退院した後も、山本さんとの交流は続き、ときどき大学病院に診察に行ったときなども、待合い室で顔を合わせ、よもやま話をしたものだった。

私が退院してしばらくすると、今度は山本さんの方が、また入院することになった。点滴をしている私のベットのそばに座っていた山本さんが、今は点滴を受け、そのベッドの横に私がいる。人間全く次の瞬間どうなるかなんてわからないものだ。

自分自身を省みても、なんて愚かなんだろうと思うときがある。あれだけの苦しい治療をし、その中で神ご自身の御言葉と、兄弟姉妹たちの励ましと、多くの経験をしてきたのに、少し落ち着いた生活ができるようなったとたん、しまりのない歩みをしてしまう。病院のベットにいたときは、同じ病室の人たちが次々と亡くなっていくのを見て、次は自分かもしれないという緊迫感と、備えをしなければならない、神にあう時が明日くるかもしれないそんな思いだったのに・・・。

「明日神にお会いするように、今日を生きなさい」
誰の言葉か知らないが、ずきっとさせられる。いや、しかしまさにその通りだ。
今を、今をどのように生きているのか。退院して落ち着いたら、今ベットに寝ている山本さんと同じ立場に立てなくなっている自分。なんて自分勝手なんだろう。明日私はこの地上にいないかもしれないのに・・・。
落ちていく点滴を山本さんとともに眺めながら、静かに時間が過ぎていく。

好きな言葉、「根性」「Attack is the best defence」(攻撃は最大の防御なり)。
私のアドレス帳に山本さんはそう書いた。積極的で、明るい彼が好きそうな言葉だ。
実際の彼に会ったら、これを読んでいる人誰もがなるほど彼らしいと思うだろう。
もし彼がまだ生きていればの話だが。

聖書の中にクリスチャンは雲のように多くの信仰の先達に取り囲まれてこの地上を歩んでいるという箇所がある。私はその証人の他に、山本さんをはじめ私にかかわって私より先に亡くなった方たちが、私の歩みを見ているような気がする。今日の歩みは、彼らの命に答えているものだろうか、と思う。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (新約聖書ヘブル12:1,2)

素直になれなくて/2010.5.4

 教会ではどうしたら神様に喜ばれる生き方ができるか、どうしたら失敗を防げるかについて語られることが多い気がする。もちろんそれは非常に大切なことだ。病気だって、どうやって治すかより、どうやって予防するかを考えて実行したほうが良いに決まっている。

 しかし、転んでしまった時、失敗した時、どうしたら起き上がれるか、どうやって立ち直るかについては、あまり語られていないのではないかという気がする。自分も含めて、人は失敗するという視点が少なすぎるのかもしれない。信仰生活が長くなれば、もう大丈夫、失敗する、間違うことなんかないとは誰も言えないはずだ。むしろ、信仰生活が長い人ほど、つまずいた時・失敗した時に立ち直れるかどうかは難しさも増すのではないだろうか。

 人は失敗する、間違う。この視点を忘れてはいけないと思う。失敗しないように、間違わないように教えるのと同時に、失敗した時、間違った時にどうしたらいいか、どうやって起き上がるのかを共に考え、語ることを忘れないようにしたいと思う。

YES MAN/2010.5.3

ゴールデンウィークにどこにも出かけない予定の我が家は(笑)、DVDを借りてきました。息子は最近お気に入りのドラえもんのDVDを。そして親のためには「YES MAN」を。
 ジム・キャリー主演の映画なので、コメディーの要素も十分にあって楽しいのですが、それまでは「NO!」とばかり言っていた主人公が、訳あって何にでも「YES!」と答えるようになり、そこから人生が変わっていくというお話しは、ちょっと考えさせられました。
 聖書には「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。」という言葉があります。この聖書の言葉を映画の中の主人公のように、どんなことにも当てはめたら、私達の人生はかなり変化するのではないかと。

擬似大家族/2010.5.1

 昨日から息子の友達の3人兄弟(一番上のおねえちゃんが6歳、長男が4歳、一番下の弟が2歳)がうちにお泊りしています[わーい(嬉しい顔)]うちの息子は3歳。いつも教会でみんなで遊んでいる仲間です。

 なので私と妻と、子ども達4人。いっきに7人家族!いつもは一人でいて、私に「遊んで!」とせがむ息子も、飽きることなくみんなと遊んでいて、私に「遊ぼう!」とは言ってきません(笑)。久しぶりにオムツ交換もしました[ふらふら]妻もしっかり食事の献立表を作り、手作りおやつも準備したりして、子ども達を楽しませようとがんばっています[レストラン]

 今晩もう一晩お泊りの予定なので、また今晩も芋を洗うようなお風呂や、修学旅行のような就寝時を見られるでしょう。毎日これだったら大変なのかもしれないけど、ちょっとだけなら擬似大家族も案外楽しいかもね。 

よどんだ一日/2010.4.27

今日は午後から家族で気分転換も兼ねて車で出かけました。車内から見渡す今日の鹿児島は、ひたすらどんよりとよどんだ空気。黄砂か?と思いましたが、どうやら桜島の灰のようです。
一日一日暖かくなり、窓を開けて外の空気を部屋に入れるのが気持ちいい季節になってきましたが、今の鹿児島ではうっかり窓をあけたら部屋の中が灰だらけになってしまいます。

花 ~泣きなさい 笑いなさい~/2010.4.20

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という聖書の言葉がある。よくこの言葉をめぐって、いっしょに喜ぶことと、いっしょに泣くことと、どちらの方が難しいか?という話になることがある。
「いっしょに喜ぶ方が難しい」、
「いや、いっしょに泣く方が難しい」と、いつも意見は分かれるようだ。

しかし、喜ぶ方か泣く方かという見方をしたら、この言葉の本質を見失ってしまうような気がする。問題は「いっしょに喜ぶこと・いっしょに悲しむこと」ではなく、「誰とともに」ではないかと思うのだ。

自分の愛する人・尊敬する人と、自分が憎んでいる人・自分の敵と、どちらの方がいっしょに喜び、いっしょに泣くことがより難しいだろうか。
ともに喜び、ともに泣くということは、自分がその人の「となりびと」になっているかどうかが問われるところだと思うのだが。

書斎での遅い昼寝/2010.4.17


今日は夕方庭で息子と野球をしました。バット(といってもプラスチックの軽いヤツですが)を振って、勢い余って転んでしまった息子は大泣き「もうおうちで遊ぼう」と言い出し、結局家の中で遊びました。

それから私は明日の準備などで1階の書斎へ。小一時間ほどして妻が夕食の買い物に行こうとしたときには、疲れたのか息子は爆睡中

我が家は(といっても持ち家ではありませんが)は2階が住居で、1階は倉庫と事務所となっています。しかし1階の事務所は使っていないので、私の書斎として使わせてもらっているのです。したがって2階と1階の入り口は別々。普通の家の造りならば、2階にいる息子が目を覚まして泣いたら、1階でもすぐ聞こえるでしょうが、我が家の場合はそうはいきません。1階の事務所にいると泣き声もあまり聞こえませんし、もし息子が目を覚まして親を探しても、家の中に誰もいなくてパニクるのは必至。

それで息子を担いで私の書斎に連れてきました。写真は私の書斎で気持ちよさそうに寝ている息子です。妻は買い物に行きました。
でもちょっと遅い昼寝(夕寝?)なので、夜ちゃんと寝てくれるか心配ですな

ああ間違い・No.24/2010.4.15

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。  
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『今日のチャペル・タイムは私が支配者です!』

我々は自由だ!誰にも支配されないぞ!
私たちの主はイエス・キリストだけだ!
すみません、わかっているけどふざけてみました。
もちろん正しくは「司会者」。 



誕生日/2010.4.14

昨日の13日は私の誕生日でした。それで妻の両親にお昼をご馳走になって、息子はそのまま妻の両親の家に泊まりに行きました。それで妻と二人で私の誕生日ということで、姶良市役所のそばにある(もう姶良町ではなく、姶良市ですから)「香煎」という珈琲豆を売っているお店にはじめて行ってみました。お店の中でも飲めるのですが、カフェオレをテイクアウトしました。美味しかったですよ。そして「珈琲の入れ方教室」もあることを知り、いつか参加してみたいと画策中です。

お店のホームページはこちら

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人/2010.4.10


手軽に読めて、面白かったです。何度も繰り返して読むような本ではないかもしれないので、自分で購入するかどうかはオサイフの状態次第ですが…。アマゾンのUsedを利用するのはオススメです。

好きな食べ物は?/2010.4.9


この写真は先日の復活祭で、みんなでブランチを食べている時の息子の様子。たまご探しで見つけた着色されたゆでたまごの殻を必死にむいているところです。

実は今年の初め、妻のいとこの結婚式がありました。その披露宴の時に、他のいとこの子供達といっしょに息子も新郎新婦に花束を贈呈する役を頼まれました。
親の私たちは単に花束を渡して終りだろうと思っていたのですが、その時披露宴の司会者の方(鹿児島では結構有名な方)が子どもたちにインタビューをはじめたではありませんか!
子どもは全部で4人。そのうち3名は兄弟で、残りは息子。兄弟3人は事前に練習してきたらしく、質問にも無難に答えました。
しかし我が息子はそんな練習していません!3歳児に練習もなく、公衆の面前でインタビューの質問に答えられないよ!と緊張していると、司会者のインタビューは息子の番に。

「お名前は?」
「○○○○です。」
(おおっ!ちゃんと言えた!)
「何歳ですか?」
「3歳です。」
(まさかの連続正答!)
「好きな食べ物はなんですか?」
ちょっと間…
「カレーです。」
(うっそー!そんな質問にも答えられるの!)
「じゃあ、きらいな食べ物は何ですか?」
「カレーです。」

で、会場大爆笑。息子は固まってました(笑)

その出来事以来、息子の好きな食べ物は「カレー」と決まっていたのですが、最近同じ質問をすると「カレーとゆでたまご!」と答えるようになりました。それはこの復活祭のたまごがきっかけのようです。

ああ間違い・No.23/2010.4.8

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。

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『昨日は牧師たちと宴会でした!』

えっ、あ、そ、そうですか。忘年会かなんかで? それとも、新年会かな?
無礼講ですよね、もちろん。飲めや歌えの大騒ぎで…。
ん? もう一度言ってください。
い・い・ん・か・い・・・・・? 
あっ委員会か・・・・。


  

捏造された聖書/2010.4.6



読了しました。
タイトルは本来の英語のものとは全く違うものになってます。まあ売り上げを伸ばすためには仕方がないのでしょう。聖書の本文批評の入門として読むのには、非常に読みやすい文章になってます。翻訳者の能力の高さを感じますね。一部のクリスチャンの方たちには本文批評など神に対する冒涜だ!とする方もいるようですが、1個人としてはこの事実を踏まえて、その上で自分の信仰を確立していくことが大切ではないかと感じます。

イースター/2010.4.6

イースター、無事に終わりました。姶良市になってはじめてのさえずりの森。子どもたちの玉子探しのために、朝8時過ぎに会場となるさえずりの森へ。数名の協力者と玉子やらお菓子やらを隠していると、みんなの頭が白くなっていくではないか!! 雪か? いやまさか? 灰だ! 桜島からの灰がまるで粉雪のように降ってくるではないか!困った…。このままでは屋外では無理かも…。

 しかし皆さんのお祈りのおかげで、灰はなんとか収まり、無事にイースター礼拝を終わることができました。天気は曇り空[曇り]だったけど、かえって暑くなく良かったかも。来年は「雨の場合は教会で」だけではなく、「雨または降灰の場合は…」としないといけないかな…。とりあえず灰だらけになったスーツをクリーニングに出さないと…。


コンサート無事終了/2010.4.10

3月28日のゴスペル&サックスコンサート、無事に終了しました。約280席ほどの会場でしたが、ほぼ満席でした。マイ・フェイバレット・サックス・バンドの演奏は500円払っても聞きに来る価値があった素晴らしい演奏でした。え?ゴスペルの方は?って?会場で聞いた人に聞いてくださいな、歌ってる方はさっぱりどんな風に聞こえているのかわからないので(笑)。
あ、そうそう、ちなみに何とか間に合わせたMFSBとVoice of Hopeのコラボ「アメイジング・グレイス」は良かったそうです。

次は4月4日のイースター。いい天気になれば良いですが

イベント続きだ/201.3.19

これから生望教会では怒涛のイベント連続週間が続きます(笑)。

まず3月21日(日)は、Wii大会。ええ、あの任天堂のWiiです。Wiiを3台ぐらい準備して、プロジェクターも3台くらい準備して、大画面でやったろうじゃないか!という集まりです

その次の日曜日3月28日はゴスペルクワイヤー「Voice of Hope」のコンサート。今回は鹿児島ではメジャーなサックスバンド「MFSB」とのコラボコンサートとなってます
会場は加治木の加音ホール。夜6時開演です。当日チケットもあるのでよろしく

そして次の4月4日の日曜日はイースター。朝9時から加治木のさえずりの森で行います。毎年楽しみのブランチや、子どもたちにはイースターエッグ探しもあります。

そして4月11日(日)は教会の年次総会。これは教会の方だけですが。

阪神タイガースが夏の高校野球甲子園大会の間、甲子園球場が使えなくて各地を転々として戦う死のロードをイメージさせる多忙なスケジュールですな

楽しんでいきましょう

2013年11月5日火曜日

これは笑いましたな/2010.3.12

いや、この発想は素晴らしい

ハイ、はい、灰/2010.2.10


ここのところ、桜島の灰が毎日すごいですな。一昨日は朝起きたら「あれ?うちの車の色ってシルバーだったっけ?」と勘違いするぐらいの灰でした。
これは先週有名な磯庭園から見た桜島の噴火の様子。この日はこんなのが何度も見れました。

雪ーあぁ世界は美しい/2010.1.13


いや、ほんとに降ってますよ。鹿児島でも。
この写真は今朝家のリビングから隣の教会を写したものです。
屋根が真っ白ですね。
今午後3時ですが、今も牡丹雪が降ってます。

Let it be/2010.1.12

ビートルズの名曲の数々の中に「Let it be」という曲がある。以前からこの曲の歌詞には「Mother Mary come to me」(【イエスの母】マリヤが私のところにやってきて)というのがあるのは知っていた。
そしてその次の歌詞でマリヤが教えてくれる言葉が「Let it be」。

最近マリヤのこの言葉「Let it be」は聖書からだという説を聞いた(諸説あるらしい)。ほんと?と思いいろいろな訳の英語聖書にあたってみると、NKJV版では確かにマリヤが「Let it be to me according to your word.」と言っている(まあ意味的には他の英語聖書もいっしょなんだろうけど)。

そうやって改めて「Let it be」の歌詞を読んでみると、なるほどこれはクリスチャンの歌となるなーと。「あなたの言葉どおりにこの身になりますように」それが「Words of Wisdom」。


こんなのが好き/2009.12.29

海外のCMは面白いですが、またこんなのを見つけました。
くだらないですけど、こんなの好きです。

ちなみに状況は、新しい家を建てた夫婦が、新築祝いに友達を招いて、新しい家の中を紹介しているというシチュエーションです。奥さんは自慢のウォークインクローゼットを友達に見せて、女友達は狂喜乱舞ですが、ご主人の方は…。


With or Without You?/2009.11.21

 今年の教会クリスマス会が終わった。今年は120名程度の参加者が与えられ、おかげで会堂は人で溢れ返っていた。予想以上の人数だったので、用意していた食事に加え、急遽宣教師の方がピザを追加注文してくださった。こういう対応の早さはさすがだなーといつも感心する。

 こんなことを書くと「120名も参加者が与えられて感謝しないのか!」というお叱りの声が聞こえてきそうなのだが、こういう特別な集まりが終わるとどっと疲れる。そして「良いお話しでした」とか「勉強になりました」という感想を聞くほど、何か疲れが増える。種まきの働きと考えれば確かにそうだし、教会の敷居を低くするということにも価値が十分にある。

 それでも、真摯に自分を見つめ、罪を悔い改める人々の姿がそこにないということが、何だか楽しいだけのクリスマスで終わってしまっているのでは?という思いが心の片隅にあって、それが疲れの一つの原因になっているのかもしれない。いや、何よりそこに自分の底の浅さを見ているのだろう。
 いつかどこかで実を結んでくれることを祈るばかりである。主にゆだね、とくかく今日は休もう。

Windows7/2009.11.28

今年の夏前に、今まで使っていたパソコンが壊れた。そして、買い換えたパソコンはWindows Vistaで、もちろんWindows7にアップグレード対応だった。

少し前にWindows7が発売されて、アップグレードもすぐにできたのだが、Vistaで特に困ることもなく、出たばかりのOSは何かと不具合も多いだろうし…と敬遠してきた。

しかし先日、ちょっとVistaの調子がいまいちになってきたので、OSを再インストールすることにした。それで、この機会だからWindows7を導入しよう!と決意し、しまってあったWindows7のDVDを開けて、インストールしてみた。

結果は…いいじゃないですか!

巷のうわさどおりVistaよりサクサク動く。新しいエアロの操作感も使いやすい。
Mac教からMicrosoft王国に強制入信させられて、いつも遠い目で昔の漢字トーク7(コアな話ですな)を思い出していた私にとって、初めて「これならいいか…」と思えるWindowsですな。

宇宙は神が造ったのか/2009.11.23

以前にも紹介した「はちことぼぼるの日記」に、またまた気になる情報があったので紹介します。

『リー・ストロベルの新刊がいのちのことば社さんから出版されたらしい。『宇宙は神が造ったのか』という、アメリカでは2005年に出版された"The Case for a Creator--A Journalist Investigates Scientific Evidence That Points Toward God"の邦訳版だ。この本の原著は私も持っていたが、まだ読んでいなかった。ストロベルがジャーナリストの目で調査して書いた本なら、きっとよくバランスの取れた良書に違いないと思っていたので、安心してまだ読まずにいた。

 ところが、このブログにも時々コメントをくださる「うさたろう」さんこと、「葡萄の実<ほん訳>ミニストリー」というサイトを運営しておられ、近年ではロイドジョンズの『ローマ書講解』(いのちのことば社)を翻訳出版されている渡部謙一さんが、ご自分のウェブ日記でストロベルの新刊について2回に分けて書いておられるのを読んで、びっくりしてしまった。その中で、渡部さんが示しておられる懸念には、私もまったく同感だったので、ご本人の許可を得てここに全文を転載させていただく。渡部さんが後半部分で述べておられることは特に重要だと思うので、皆さん、どうぞスルーしないでお読みになってみてください。』

以下はこちらで。
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20091120#1258729741

これがタミフルか…/2009.11.9


お久しぶりの更新です。
基本的に筆不精ですから、ブログにも繁栄されてますな。

さて、ついに我が家にもやってきました。新型インフルエンザ。
夫婦ともにかかりました。妻の熱が引いたら、今度は私が発熱…。
息子だけが元気です。

夢去りし街角/2009.7.31

アメリカからのグループの協力で行われた今年の小学生キャンプも無事終わりました。特に今年は、初めてキャンプに参加する子供たちがほとんどだったので、なかなか疲れました。
信仰告白をした子供たちも与えられて感謝ですが、問題はこれから。いかにその子たちが教会につながり、主に従う人になるかが問われるところです。

最近よく考えるのは、多くの人が信仰を告白しても教会につながらないという現実には何があるのだろうということです。その一つの理由として日本の宗教に関する関わり方があるのかなーと思っています。
お正月には初詣をし、お盆にはお墓参りをし、クリスマスを祝う。家には神棚も仏壇もある。キリスト教式で結婚式をし、仏教式で葬式をする。
一見宗教的な生活とさえ思えてしまいますが、それらの特徴は「イベント的」といえるのではないでしょうか。決まった時期に、決まったやり方で、イベントのように行う。それをどれぐらい真剣に信じているかはあまり問われない。毎日の生活に影響を与えない。
多くの日本人の宗教との関わりはそのような特徴があるのではないでしょうか。

「信じても深入りするな」という言葉はこのような日本人の宗教観をよく表している表現でしょう。

そのような中で育っている子供たちが、キリストを信じるということは生き方が変わるのだ、あなたの人生全てに影響するのだといっても理解するのは大変でしょうし、理解したとしても実際その模範を見てきていない、そのような考えのない大人たちの中で育てられているのですから、実行していくことは大変でしょう。

そのような子供たちをどのように教え、助けていくかがこれからの課題でしょう。もちろんこれは子供に限ったことではないのですけど。

噴煙/2009.7.17


これは今週月曜日、外出しようと家から車に乗り込んで、県道に出ようとしたときに見えた桜島の噴煙。家の近所からは櫻島は見えないので、噴煙を上げている方向に櫻島があるということですな。
この日はこんな噴煙を4~5回も見ました。幸い風向きは姶良には向いていなかったようで、大量の灰は降らなくて助かりました。最近はこんな噴煙を上げている櫻島をよく見ます。

花の木/2009.7.11


一昨日と昨日、息子優心は祖父母の家に一人でお泊りでした。2歳7ヶ月にして親元を離れ、一人で2泊してくるというのは果たして大物なのか、親といっしょにいるのに飽きたのか…

それで昨日は妻と二人で夏の中高生キャンプのために霧島市(といっても地元の人は今でも国分市というイメージでしょうが)に買い物に行きました。息子はレストランに行くといっちょ前に一人分注文なので、なかなか外食というわけにはいきませんが、昨日は妻と二人だけだったので、国分駅前にある「花の木」というお店でランチをいただきました。
食べる前に写真を撮れば良かったんだけど、食べかけの写真ですみません。写真は「花の木セット」。サラダ、スープ、ライス(パンもOK)にハンバーグ、魚のフライ、クリームコロッケ。食後にはコーヒーかアイスがつきます。揚げ物も冷凍などではなく、そのつど衣をつけて挙げています。サラダのドレッシングもいけますよ。
以前は国分市街のちょっと細い路地を少し入ったところにありましたが、昨年(たぶん)から国分駅前の通りに移りました。
国分方面へ行かれた方は一度寄ってみてください。

追記
2013年現在、花の木さんは隼人町の国道10号線沿いに移転しています。錦江湾と桜島が見渡せるいいロケーションです。ぜひどうぞ。

灰の木曜日/2009.6.19


最近桜島は元気なようで、ちょっと目を離すと車はこんな感じです。家もうっかり窓を開けたまま外出すると、床がざらざらに…。昔はけっこうこれが普通だったようですが、私が鹿児島に来てからははじめての経験です。

ああ間違い・No.22/2009.5.15

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。  
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『主の御名をサンバします!』

ピーッ!(サンバの笛の音)さあ、みんなで踊ろう!

これはクリスチャンの方でないとわからないでしょう。内輪ネタですみません。
祈りの中で「主の御名を讃美します」と言う表現が使われるのです。
「さんび」が「サンバ」になってしまったわけですね。
これを言われた時には、そりゃ私の頭の中ではサンバのリズムが流れ出したわけです。

『嘉例川』「かれいがわ」と読みます/2009.5.6


妻の祖母の家は嘉例川というところにある。嘉例川駅といえば知る人ぞ知る観光スポットになっている駅で、テレビなどでもよく紹介されている。(ググってみてね)

先日、妻が息子を連れて電車で嘉例川の祖母の家に行ってきた。
家の近くの駅まで私が車で送り、妻と息子の二人は電車に。
途中の乗り換えも問題なく終わり、嘉例川の駅に降り立った時、息子が一言、
「パパは?」

遊園地やゲームコーナーの乗り物はぐるぐる回って、降りるところでは乗ったときと同じように親が待っていてくれる。きっとそれと同じだと思ったのだろう。
父親不在に気づいた彼は大声で泣き始めたそうな

『旧約聖書続編を読む』/2009.4.16

榊原康夫 『旧約聖書続編を読む』 聖恵授産所出版部

プロテスタント教会では普通あまり読まれない旧約聖書続編。でもこの本を読むと「旧約続編読んでみたい!」と思わせてくれる本です。読みやすい文章で、ある程度聖書に親しんでいる方なら楽しく読めると思います。

ああ間違い・No.21

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『お宅のお子さんはこわいね』

性格が凶暴なんでしょうか…。 顔は「かわいい」のにね。

明日から4月なのに寒い鹿児島/2009.3.31


(鹿児島県・長島町の夕日)

年度末である。今日は教会の会計監査が行われた。会計担当の方も、監査をしてくださった方たちも貴重な時間を割き無事に終わらせてくださった。このように忠実に奉仕してくださる方たちの存在は非常に大きいし、励まされる。
日曜日は総会である。ゴスペルクワイヤーVoice of Hopeや鹿児島市での英語礼拝も4月からだ。
新しい年度はどんなことが待っているのだろう?

カメラマン/2009.3.25



カメラで写真を撮っているところです。
これが今のところ息子のカメラです。
大人のしぐさをよく見てます。 

ああ間違い・No.20

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『うちの子はくさいです』

そりゃあいくらアメリカ人はシャワーだけで済ませるっていったって、臭くちゃあねぇ
我が子のことをそんな風にいったら、かわいそうでしょう・・・。
ちなみにこの子は九歳だそうです。 

2013年11月2日土曜日

不自然なキミが好き/2009.3.16


しまじろうが好きなのはわかる。
だが、なぜそこで見る? 

旅人よ/2009.3.14

インターネットが普及して、昔聞いていた音楽をずいぶん簡単に聞くことができるようになった。そんな曲のひとつが爆風スランプの「旅人よ」。あの猿岩石のやつですな(苦笑)。

「やるせない夜は 街路樹をアンテナにして
 あの人に SOSでも打ちまくれ 計算できない悲しみの

 強い風に 今立ち向かってゆく 遥かかなたを目指した旅人よ
 いつか再び君に出会うまでは どうかどうか笑顔を絶やさぬままで

 広い宇宙の上を歩いてゆく 遠い遠い自分に出会うために 
 かっこ悪い道を選んだ男 かっこ悪い夢を選んだ男」

信仰生活もこうありたいなと思いますな。牧師や宣教師になる若者が少ないと言われる時代、教会で働こうなんて、かっこ悪い道かも…なんて考えることもあります。どんな道を歩んだとしても強い風に立ち向かってゆく旅人でありたいと。

あれ?こんなこと言ったらかっこつけすぎ?

なかなか更新できないもので/2009.3.10

なかなか更新できなくて…。
お詫びの印ではないですが、このサイトでも読んで息抜きをしてください。
http://www.yayuyo.org/

ああ間違い・No.19/2009.2.13

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『日本語の勉強には妊娠がいります』
 
六ヶ月ぐらいのお子さんがいるお母さんの言葉。
さすが最近赤ちゃんを産んだばかりの方の言葉は違う。
日本語学会に新たな新風を。ん、ということは日本語学習は女性に有利なのか・・。
最新の学会の調査によると、妊娠ではなく、忍耐らしい・・・。 

あなたと生きた季節/2009.1.28

「あの人では…」と言ってしまうことがよくある。
それがその人の何年も前の記憶だったとしても、一度固定したイメージはなかなか変わらない。
そして「やっぱり…」と言ってしまう。

しかし人は変わる。流れた年月はそれだけその人に変化を与えるということを忘れないようにしたい。

確かにどんなに時間が過ぎても、その間どんな経験をしても、変わらない人もいる。
それは事実だろう。

しかしそれでも、人は変わることを信じたい。

今年もぼちぼち/2009.1.16

明けましておめでとうございます。
今年もぼちぼち更新できたらなーと思います。

ああ間違い・No.18/2008.12.5

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『今、家内は怒っています』

これはちょっと説明が必要ですね。

ある若い宣教師ご夫婦に赤ちゃんが産まれました。
ある日の午後いつも仲良くしている近所の奥さんが、ぜひ赤ちゃんを見せて欲しいと宣教師さんの家に来ました。
でも、その時、宣教師の奥さんも赤ちゃんも昼寝中。
じゃあ、また後でということになりました。

さて、その日の夜。
今度は宣教師のご主人の方から、その近所の奥さんの家に訪ねていって
「今、家内は起きています。どうぞいらしてください。」
と言ったつもりが・・・。

みなさん、宣教師さんの家に行くときは、なるべく昼寝しているかどうか確認してから行きましょう。
そうしないと怒られますよ。


I'm a pc/2008.11.13

私は生粋のマックユーザーである。初めて買ったパソコンはAppleのLC575であった。その後PowerPC8500、B&Wマックと変遷してきた(この辺の話はわかる人にしかわからないだろう)。
今は聖書ソフトなどの関係で仕方なくWindowsを使っているが、心はマックユーザー、Apple教の信者である(嗚呼、これは偶像礼拝か!?)。

しかし…このCMだけは紹介するしかあるまい…。今アメリカで(英語圏で?)マイクロ○フトがさかんにテレビCMを流しているシリーズの1つだ。「林檎」好きの私がどうして「窓」のCMを紹介するのかは、見てもらえばわかるはず(わからない人はメールしてね)。

ちなみに以前紹介したアップルのCMをまず見ておくと、どうして「I'M A PC」と言っているのかよくわかるはず…
http://www.apple.com/getamac/ads/

しかし、返す返すもマイクロ○フトのCMを紹介するなんて…。


ああ間違い・No.17/2008.10.27

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『残尿ですか?』

宣教師の方が、遅くまで仕事をしている私に言ってくださった言葉です。
いつも健康に気遣ってくださってありがとうございます。
でも、残尿ではなくて、残業だから・・・。



第19話 大工の清水さん/2008.10.22

「この間新しいバイクを買ってさー、関越自動車道で200km出してみたんだけど、さすがにびびったねー。」
なんとまあ、突拍子もないことをするか、と耳を疑いたくなるが、小柄な体で1000ccもあるようなバイクを乗り回す、私のとなりのベットの清水さんはそんな人だった。彼の仕事は大工。前に何度かこの話の中にも出てきたから、覚えている人もいるかも知れない。彼の気さくな性格もあって、よく大工仲間が、特に十代の若い大工青年たちがよくお見舞いに来ていた。

日曜になると、必ず奥さんが二人の女の子を連れてやってくる。大工さんだけあってなかなかにいなせで、楽しい清水さんによく似合った、明るく豪快なお母ちゃんといった感じの奥さんだった。清水さんが小柄でやせているのに対して、奥さんは本当に体格がいい。蚤の夫婦とは、このご夫婦のためにある言葉であろうと思われるほどである。

清水さんが入院してきたのは、夏の暑さもそろそろ消え始める秋ごろだった。仕事で屋根に登っていたら、くらくらしてきて立っていられなくなり、病院に行ったところ入院ということになったらしい。大工ならシンナーを扱ったりすることがあるから、初めはそのせいだと思っていたらしいが、検査を進めていくうちにそうではないらしいということがはっきりしてきた。

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ある夜のことだった。消灯時間になって、病室の電気が消され、それぞれがベットの中にもぐりこんだ。
10分、いや20分ぐらいたったときだろうか、隣のベットで寝ているはずの清水さんが突然私に話しかけてきた。

「なあ、多胡くん。今日昼間に母ちゃん(奥さんの意)が来ただろう。」
「はぁ、来ましたねぇ。」

二人とも自分のベットに寝たまま、暗闇の中で天井を見つめながらの会話である。もちろん互いの顔などは見ることはできない。

「今の母ちゃんさぁ、三人目の母ちゃんなんだよ。」
「・・・」
「最初の母ちゃんとは死に別れて、次の母ちゃんとは離婚して、今の母ちゃんは三人目なんだよ。」

暗闇の中で突然話しかけてきたと思ったら、一体何のことを、私の頭はどのようにそれを受け止めてよいかわからなかった。こういうときには、やぁそうでしたかとか、大変でしたねぇなどと、とりあえず言ってしまうのが私なのだが、このときは、突然、しかも考えたこともないことが来たので言葉を返すこともできなかった。

「なぁ、多胡くん。母ちゃんを選ぶときは顔で選んじゃいけないぜ。
 俺の友達で絶世の美女と結婚した奴がいるけれど、家の仕事は何もできない、もうただの置物さ。
 俺の母ちゃんは、見かけは良くないけれど、家のことをちゃんと任せておけるからな。」

美人の方の名誉のために一言付け加えさせてもらうが、美人の人すべてが清水さんの言う通りだと言っているわけではないので、あしからず。
でも、何で清水さんは突然そんなことを言ったのだろう。病院のベッドに寝ているうちに、過去のことを思い出して感傷にでもひたっていたのだろうか。それとも、ちょっと驚かせてやろう、とでも思ったのだろうか。しかし、私に話していながら、自分に言い聞かせているような話し方をしていたのはどうしてだろう・・・ 。

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清水さんの病気は、再生不良性貧血だった。難病に指定されている病気である。ある日を境にして、発熱が始まり、もう熱が下がることはなかった。かなり大変だったとみえて、あの威勢のいい清水さんがぽつんと一言「まいった」とつぶやいた。いつの間にか秋が終わり、師走を迎えた世間の人達は忙しく動き回っている頃だった。
 
その頃私は治療成績優秀ということで、年末年始の外泊を許された。久しぶりの我が家!胸が躍った。外泊するその日、清水さんの病室に顔を出すと、愛嬌ある笑顔で私を送り出してくれた。
                
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久しぶりの我が家を十分満喫して帰ってきたときには、清水さんのベットは空になっていた。
他の患者さんの付き添いの人が、
「きのう急にだったんだよ。頭の血管が切れたみたいでねぇ。結構元気だったんだけど・・・。」
と話してくれた。

まさか・・・。
想像もしていないことだった。具合は確かに良くなかったけど、でもこんな急に・・・。マットレスだけになったそのベットを私はしばらく呆然と見つめていた。頭の中には、清水さんの愛嬌のある笑顔が浮かんでくる。あまりの呆気なさに、まるで現実感がない。
清水さんの笑顔が消えると今度は、あの豪快で、いかにもかかあ天下のお母ちゃんといった感じの清水さんの奥さんの顔が浮かんだ。でも私の脳裏に思い浮かんだのは、いつものあの笑顔の奥さんではなく、深い悲しみに包まれている顔だった。


『罪からくる報酬は死です』
聖書の御言葉は確かに真理だ。この世で罪のない者はいないし、だからすべての人が死ぬ、これは大原則だ。ということは、逆に言えば罪がなければ死ぬことはない、罪のない人が死ぬということがあったとしたら、それは原則に反した、例外的な、奇跡的な死だということになるだろう。
 
イエス・キリストは、ただ一人罪のない生涯を歩まれたお方だ。だから、聖書の原則に当てはめてみれば、このお方は死ぬことがない。死のうと思っても、罪がないから死ねない。ところがどうだったろう、キリストは二千年前、確かに十字架にかけられ、殺された。死ぬはずのない方が、確かに死なれたのだ。キリストの死は、はたして例外的な、奇跡的な死だったろうか。いや、私たちと同じように、苦しまれ、死んでいかれた。そこには、奇跡的な要素などなく、死に渡されていく姿を見ることができる。確かに主は、罪人の罪を負って、みずから罪ある者かのように死なれたのだ。私たちの罪を、ご自身の罪かのように背負われ、ご自身の罪として、死んでくださった姿を、あの十字架に見ることができる。
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(聖書)

LOVE IS CASH/2008.10.15

 学位商法というのがしばらく前から話題になっているが、最近その影響がキリスト教界にも及んでいるというのが話題になっている。アメリカの神学校と提携して学位を出すと謳っているが、実はそのアメリカの神学校が本国のアメリカではきちんと学位を出せる学校として認定されていないなどだ。特に福音派の牧師たちにそのような学位を持っている牧師が多いという。

 自分の卒業した神学校も、現在学んでいる神学校も学位を取れるような神学校ではない。かくいう私も、一時期は学位に憧れた時期もあった。何より「はく」がつくし、信用もあがりそうだ。神学校の教師からは「牧師も長くやっていると、色々自分の中にストックがたまっていく。もしそのストックだけで話すようになったら、牧師を辞めなさい。」と言われた。つまり学ぶのを止めた時点で牧師としては失格だ、と。その意味でも牧師の継続教育のために、より高度な学び、例えば学位を取れるような場は必要だろう。

 しかしどんなに立派な神学の学位を神の前にかざしてみたところで、「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」と言ったヨブのようになるのが関の山だ。聖書・神学の学位というものの存在についてよくよく考えてみると、やっぱりそれはあくまでも自分のため、学びの区切りであろう。もし自分が学位をとったとしても、とても公表できないと思う。神についての学位なんて畏れ多い…。

「学位を持っていないお前に言われたくない!」って?
はい!その通り!だから気にしないでください。学位も持っていない者のたわごとですから。はい、もっと勉強します!失礼しましたっ!

ああ間違い・No.16/2008.9.23

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『触ってください!』

え、そんな大胆なことを・・・・。
あ、座ってくださいですか・・・。



うなる一言/2008.9.10

犠牲のないところに、真の賛美はありえない」(小林和夫氏)

氏の説教から。思わずうーんとうなりました。

桜島/2008.9.10

 先日8月の忙しい時期を乗り切った(笑)ご褒美をかねて、教会スタッフ達で霧島の温泉に一泊してきました。ネットで情報を調べて、「温泉が充実し」「食事つきで」「かつ安い!」という無謀な条件で候補を絞り込んだだけあって、食事は大変なボリュームだったし、部屋も十分な広さ。肝心の温泉は?というと、いくつもの露天風呂あり、泥パックありとなかなかでした。

 ただ当日は若い人200名の団体様が宿泊していたので、夜になってひとつの露天風呂に行ったら、湯船は酔っ払いで芋を洗う状態
 しかたなくもうひとつの露天風呂に行ってみたら、これまた若い衆が大絶叫して大合唱しているではありませんか! しかもスピッツを! ”愛してる~の響きだけで♬”

 こりゃ明日の朝入ろうと露天風呂をあきらめて、低温サウナへ。するとそこにも数名の若い衆が。話を聞いてみると某運送会社の社員の方達だそうで、毎年一回全国の30歳以下の社員が集まって親交を深めるらしい。私が話した人は30歳で、参加者の中では最年長。このイベントに参加するのは今年が最後。
その彼が一言「なんとか若いもんを育てないといけないんで」。

 企業でも人を育てることに必死になってるんだなー、いやそれ以上にトップ以外のこうした若い社員達が率先して後輩達を育てていかねば、という姿勢に感じ入りました。これって教会は対岸の火ではないはず。若い人をいかに育てるか?そんな取り組みを教会ももっと力を入れねばいかんですな。

 あ、そうそう、露天風呂で大合唱していた若手の社員のみなさん。私と話したあなたがたの先輩も「もっと硬派な歌を歌うと思ったんだけどなー、スピッツじゃあなー。長渕とかにいってほしかったよなー」と言ってました。
そりゃそうでしょう!! 鹿児島といえば長渕でしょう!!
”錦江湾に陽が沈み~♬”

セラ/2008.8.10

私たちの教会のメンバーで構成されているセラという賛美のグループが今アメリカに行って、いくつかの教会で賛美をしたりしています。ブログでその様子を見ることができるので、ぜひどうぞ。

http://blogs.yahoo.co.jp/selah_mrkm

最近話題の…/2008.8.7

最近色々なところで話題とされることが多い牧師の犯罪。
いつも読んでいるブログでこんなアンケートがありました。
あなたならどう答えますか?

『一度、性犯罪を犯した牧師は、教会で働けますか?』


終わった!いや、これからだ!/2008.7.25

 7月27、28日にかけて小学生キャンプが大口シャロームキャンプ場で行われました。今年の参加者は小学生30名。キャンプのテーマは「聖書を読もう!」。ゲストスピーカーには東京からカリン・ザイエンガー宣教師を迎えました。
 で、キャンプは無事終わり昨日帰ってきましたが、今朝起きたら体が痛い(笑)。でも翌日に痛みが来るのはまだ若い証拠か?スタッフの皆さん、お疲れ様でした。
 キャンプが終わって一安心というわけにはいきません。続けて子供たちが聖書を読むようにするのは至難の業。8月中毎週木曜日にはナタリー宣教師の家で聖書を学んだり、宿題をしたりするホープ・キッズを行います。お祈りくだされ。
 でもとりあえず今日は休もう…。あっ、日曜日のお話しの準備がまだだ…。ブログを書いている場合ではない…。

(写真は昨年のキャンプの様子)

季節が君だけを変える/2008.7.5

いくつかのブログをチェックしているが、また最近これは紹介したいなーという記事があったので。
こちらのブログの「神学モノローグ」のシリーズは読み応えがありますが、最近の記事で7月3日の「越えているもの」と6月23日の「大村晴雄先生の『近世哲学』を読む」はお勧めです。ぜひご一読を。

http://jbtministry.spaces.live.com/default.aspx

占星術が当たっているように思うワケ/2008.6.12


この動画はイギリス放送されていた人気番組「Trick of the Mind」の一部で、出演しているのは、イギリスのトリックスターの方だそうだ。彼が使っているのは超能力でもなんでもなく、超能力があるという方が良く使うテクニックである「バーナム効果」を応用したものだそう。
 はーなんだかなー、こんなんで世間の多くの人は一喜一憂しているのかと思うと…。

さらに多くの情報が知りたい方はこちらにアクセスしてみてください。
http://www.asios.org/index.html

第18話 味のある言葉/2008.6.10

 こうげん病。あー、あの高い山に登ったときにかかる病気でしょうと思った方、それは高山病。
こうげん病、漢字では膠原病と書く。「皮膚、軟骨などの結合組織の硬蛋白質の変性を本態的病変とする疾病の総称。」と辞書には書いてあるがこれだけではさっぱりわからない。病状としてはリウマチに似ていて、腎臓などにも障害が出てくるらしい。進行すれば命にも関わる病気でもある。そして傾向としては、女性に多く、男性に少ない病気と言うことだ。

 佐藤さんは30代前半、働き盛りの男性であり、先頃結婚もしたばかりだ。最近どうも体調がすぐれないので、病院で検査してもらったところ男性には珍しい膠原病であるということがわかった。すぐに入院になり治療が始まったが、膠原病に対する治療はホルモン剤の投与だけなので多少の副作用は見られるがあとは一日中暇を持て余すことになる。佐藤さんも例にもれず、暇を持て余している様子がこちらにも伝わってくる。そんなふうに感じたのは私だけではなかったらしく、隣のベットの清水さんが佐藤さんをからかいはじめた。

「よう、最近奥さんがあんまり見えないけど だんなのいない間に浮気でもしてるんじゃねぇか。」
あまり品のいいからかい方とは言えない(からかうのに品のいい悪いのあったもんじゃないか・・・)。
「かなわないなー よしてくださいよ、からかうのは・・。」
真面目な佐藤さんは、少しかすれた声で真面目に答える。
しかし、暇をつぶすのに格好の材料を見つけ出した清水さんがそう簡単に引き下がるはずはなく
「だけどよう考えてもごらんよ、まだ結婚して5年も10年も経ってるわけじゃあるまいしさー絶対に変だよ。」
「もう嫌だなぁ清水さんは・・・。」
結局そんなくだらないからかいに佐藤さんが乗るはずもなくその場は終わりになった。もちろんそんなからかいのあったことなど奥さんが知るはずもなく、相変わらず病院に来る回数は増えなかった。

 ところがそれから目に見えて佐藤さんの様子がおかしくなってきた。なんとなくそわそわしていて落ち着かない。時々やってくる奥さんともベットの片隅で何やら小声で押し問答をしている。ある日佐藤さんが自宅へ電話をかけていたとき、それが決定的になった。
「どうして今日も病院に来なかったんだ!わけを言えわけを! やっぱりお前は浮気をしてるんだな!!。」
たまっていたものを一度に爆発させるように病棟中に響き渡る大きな声で佐藤さんは叫んでいた。

 佐藤さん御夫妻の名誉のためにはっきり書いておくが、奥さんは断じて浮気などしていなかった。御主人のいない家庭を守るために必死で頑張っていたのだ。それに御主人も服用していたホルモン剤によって、精神的にも安定していなかったと言う理由もある。しかしなんと言ってもたった一度のからかいが、その引き金になったことは火を見るより明らかなことだ。

 からかうなんてことは私達の中では日常茶飯時のことかもしれない。そして誰もがこう言うのだ『そんなの本気で言ってるわけじゃないんだから・・・。』

 でもどうなんだろう、清水さんにしたってそんなこと本気で言ったわけじゃない。ところがそんな冗談半分に言った、まるで本気じゃない言葉が佐藤さんをそこまで追い込んでしまったのだ。もしかしたら私達が軽い気持ちで言っている言葉のほうが、人を傷付けていることが多いのかもしれない。『そんなの本気じゃないよ』と自分の立場をまず確保してから、相手をからかって楽しんでるなんて なんて趣味の悪いことか。でも悲しいかな、それが大好きなのが罪深い人間なのだ。私も罪深い人間として清水さんの共犯者である。そしてこれを読んでいるあなたも。

 主は私達に塩気を保ちなさいとお命じになった(マルコ9:50)。もし私達が主によって塩気を保っているならば、私達の言葉も当然塩気のある言葉のはずだ。無味乾燥と言う言葉があるが、私達が本当に主につながっていないなら全く味の無いつまらない言葉しか出てこないだろう。主にあっていつでも味のある言葉を話していたいと切に思わされる。
「あなたがたのことばが、いつも親切で塩味のきいたものであるようにしなさい。」(コロサイ4:6a)

 さてそれからの佐藤さんであるが、奥さんが誠意ある説得を続けたおかげで少しづつその心もほぐれていき、退院する頃には以前の落ち着きを取り戻していった。それにしても佐藤さんの奥さんがしっかりした人でよかった。もしこれが感情的な奥さんだったらと思うと・・・・。もしかすると一番の被害者は奥さんだったのかもしれないな。まったくからかうなんて百害あって一利なしである。5号室の入院患者一同深く反省しています、お騒がせしてすみませんでした。

2013年11月1日金曜日

ああ間違い・No.15/2008.6.3

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『隣の部屋はやましいねぇ』

知らなかった。隣の人って、そんな人だったの?気をつけなくちゃねぇ。
でもね、やましいとはちょっと違うかな。「やかましい」だからね。

めぐみ/2008.5.23

ひとりでも多くの方に見てもらえたらいいと思い、紹介しました。


http://www.rachi.go.jp/jp/megumi/index.html

ああ間違い・No.14/2008.5.20

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『おっぱいをください。』

ある男性宣教師の方が、レストランで、かわいいウェイトレスの人に言った言葉。
これは、ちょっと説明が要りますね。
日本語では丁寧な表現の時に、名詞の頭に「お」をつける表現があります。
たとえば、「父さん」は「お父さん」、「風呂」は「お風呂」というようにですね。もうわかりましたか?
この宣教師さん、パイが食べたかったんですね。


ああ間違い・No.13/2008.4.29

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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日本語教師「エデンの園で女を偽ったのは誰ですか。」
宣教師「エビです。」

えっ!そうだったのか・・・。じゃあ大好きだけどエビフライはもう食べない!

君に会えたから/2008.4.26

最近は息子と外で遊びます。自分の子供って不思議な存在です。


そして僕は途方にくれる/2008.4.7

 聖書は超古文、しかも異文化の。現代に通用するメッセージにするには、ただ翻訳するだけでなく、当時の文化、習慣、思考、言語などを考慮する必要がある。そのテキストに込められている、全時代・全文化に共通するメッセージをくみ出す、つまり現代の人へのメッセージとして変換する作業だ。

 そこで問題が起きる。聖書を解釈し、伝える人々が全て同じメッセージに変換してくれれば良いのだが、大きい点から始まり、小さい点にいたっては無数の違う解釈がある。するとそれらの解釈を聞いた者は、自分で取捨選択をしなければならなくなる。

 そうするとどうしても自分に都合の良い解釈を採用したくなる。そしてそう解釈してくれる人を味方につけ、自分の正当性の後ろ盾にしてしまう危険性が絶えずつきまとうということになる。

 しかし、それ以上に聖書のメッセージを伝える者にとっては、もしかしたら自分の理解が、誰かを聖書の言わんとしていることの理解へ導き、神の前にへりくだらせるのではなく、自分の罪を隠し、正当化するための手段として使われてしまうこともあるということだ。やはり聖書を解釈し、伝える者の責任は大きいだろう。そのメッセージによって人は生きもし、死にもするのだ。

 クリスチャンは自由な律法によって裁かれる者だ。解放されている存在。真に聖書のメッセージを受け取れるなら、その人の生き方は目的を持ち、力強く、以前の生き方には戻りたくないと感じさせるもののはずだ。

 聖書のメッセージを語らせていただいている者のはしくれとして、自分は聖書の言わんとしていることを、そのまま伝えられているだろうか?自分の話したことによって、誰かを縛り付けていないだろうか?自分の話したことによって、誰かの罪を正当化してしまうようなことはないだろうか?
 自問自答する毎日だ。

第17話 神経内科/2008.4.3

「うわー!!」
 真夜中の病院に響くには、余りにも恐ろしい断末魔のような叫び声が病室のすみのベットからあがった。驚いたのは同じ病室で寝ていた私達である。みんなが、ばっとベットから飛び起きた。「どうしたー!」と私のとなりのベットの人が、声を発した土屋さん(仮名)に向かって声をかける 今まで夜の闇の中だった病室に、光々と電気の明かりがつく。付き添いの奥さん(もう60近いと思うが)は、わけがわからずおろおろするばかり。ぴりぴりした空気が、病室に漂う。すぐに看護婦が飛んできて、さらに緊迫感を強める。だが、とうの彼は何もなかったかのようにおとなしくなっている。なーんだ、ねぼけたんじゃないか、と早とちりしないでもらいたい。つまり、彼の病気はそういう病気なのだ。

 あるときには、いきなり彼がベットの上に立ち上がった。もちろん、はっきり意識があるわけではない。あ、危ない、とみんなが思った瞬間、まるで丸太が倒れるように体を真っ直ぐにしたまま、ベットの横にずどーん・・・ 。この時も床が揺れんばかりのすごい音。怪我がなかったからよかったようなものの、同じ病室にいる者達は、彼のこの騒ぎにずいぶん悩まされたものだった。

 血液と腎臓の専門の病棟にどうしてそんな人が入院しているかって?ところが、面白いことに、西病棟の最上階である七階の、私がいた五号室に、二床だけ神経内科のベットがあったのである。広い大学病院の中で、たった二つしかベットのない、それが神経内科なのである。では、どんな人がそこに入院するかというと、原因のよくわからない病気の人、まだ難病指定さえされていないような病気の人、なのである(多分)。しかし、入院患者の目からみれば、研究用に設けられたベットにすぎない、という印象がぬぐえない。この神経内科に入院した人は、されるだけの検査をされたら、それで退院。決して治療してはもらえないのだ。もちろん、入院してくる人達はそんなことは少しも知らない。

 ある中華料理屋を経営していたまだ30代前半の人は、筋肉が萎縮していき、最後には動かなくなってしまうという病気だったが、一通りの検査をされたら治療も受けずに退院していった。このまま動けなくなっていくのを待つのは辛い、と言いながら・・・。

 また、手の皮膚に異常な染みができてしまうおじいさんは、やはり一通りの検査をされたら、病気についてなんの説明もなく、あとは自宅近くの病院でと言われて、「近くの病院じゃ治らなかったから、大学病院に来たんじゃねぇか!こんな馬鹿な話があるか!すこしぐらいどんな病気か説明してもよさそうなもんだ!。」と今にも訴えてやる、という様な剣幕で退院していった。

 こんな調子だから、神経内科に入院する患者は入院、退院のサイクルが極端に短い。どんどん患者が入れ変わっていく。私のように入院が長くなってくると、ああまたかと取り立てて驚かないが、どうにか病気を治そうと思って来られた人達にとってはたまったもんじゃないだろう。もちろん、病院の方にだってそれなりの理由はあるんだろう。もっとベットがあれば気の済むまで治療してやるさ、とか、病気を調べるためには仕方がない、などとDr.達も心では思ってるのだろう。それに、今は有効な治療がない病気だったら、どんな名医でも治すことはできないのだし・・・。

 さて、土屋さんであるが、彼の病気はどんどん進行していき、今はほとんど意識、いや、彼の場合は体はよく動くし、力もあるのだから、普通の意識がないのと少し違うが、とにかく付き添っている奥さんとも意思の疎通が出来なくなってしまった。そんなある日、一人の助教授らしき人が土屋さんの奥さんのところにやってきた。
「今度、学生達の前に御主人と一緒に出てくれませんか。その時に、御主人の様子がどんなふうに変わってきたか、説明してもらいたいんですが。」

いかにも純朴で田舎のお婆ちゃんという感じの奥さんが、依頼というよりもそうしなければならないといった口調で言われたら、断われるはずもない。多くの学生達の前で、ベットの上で寝たままの御主人を前にして、話さなければならない奥さんの気持ちは、どんなものだったのだろう。

 多分土屋さんの病気は、とても珍しい、まだ誰も有効な治療法を確立していない病気だったのだろう。だから、病院側としても色々な検査や治療をして、そして学生達にも勉強のために見させてあげたかったのだろう。あまり治療のされることのない神経内科で、まがりなりにも治療してもらえるのだから、それはそれでいいじゃないかといわれれば、それはそうかもしれない・・・ 。でも、何か欠けてるんじゃないだろうか・・・。

 主はその生涯の中で、多くの人を癒されたが、ただ病気を治されただけではなかった。現代の医学がともすると忘れがちなものを、主のお姿を見るときに思い起こさせられる。

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
 「わたしの心だ。きよくなれ。」』 (マルコの福音書1:41)

復活祭無事終了/2008.3.27

3月23日の復活祭が無事終わりました。
当日は雨模様[雨]でしたが、今年は教会で行ったので、天候には影響されずにすみました。あ、でも子どもたちの玉子探しが外ではできなかったのが残念。


ああ間違い・No.12/2008.3.11

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『病んでいる田中さんを炭焼きにしてください。』

やっぱり炭焼きなら、備長炭でしょう。遠火の強火でね。
ちがーーーう! 「す・み・や・か・に・い・や・し・て・く・だ・さ・い!!!」

これは宣教師の方が授業中に、祈りの例文を間違えてこう言ってしまったのです。
その例文とは「病んでいる田中さんを速やかに癒してください。」
ここまでいくと芸術的ですな…。

第16話 御香木のお話し/2008.3.6

「むかしむかし、あるところに それはそれは美しいお姫さまがいました。」
こうして彼女の話が始まった。治療で風呂に入れなかった私が、ケア・ルームで看護婦さんの市川さんに体を拭いてもらっていた時のことだ。彼女はなかなかの美人で、隣のベットの清水さんに言わせると、病棟で1,2を争うほどである。その彼女がふと何を思ったか、体を拭きながら
「御香木の話し、知ってる?」と聞いてきた。
 知ってるも何も、こっちは“御香木”がなんだかすら分からない。
「御香木は良い香りのする木のことでしょう。」と、
まるでそんなことも知らないのという笑いとともに、彼女は話し始めた。もちろんそこはプロ、しっかり体を拭きながらである。

『それはそれは美しいお姫様でしたから、たくさんの人が彼女を恋い慕っていました。
 その中でも、彼女のことを思うと夜も眠れないほど彼女を慕っている1人の青年がいました。
 彼女の姿を宮廷で見かけるだけで、彼の心は張り裂けんばかりにときめくのです。

そんなある日のこと。
大好きなお姫様が「かわや」へ行くのを見かけた彼は大きなショックを受けました。あんなに美しいお姫様が“かわや ”に行くなんて・・・。彼は美しいお姫様は“かわや”などには行かない、と心底思っていたのです。
しばらくショックから立ち直れなかった彼ですが、流行りの歌のように♪時の流れに身をまかせ~♪ているうちにそ のショックから抜け出したのでありました。まったく人間の心とは、いかに都合良く・・・いやいや良くできているか と 感心させられることしばしであります。

さて、ショックから立ち直った彼は、一つの疑問を持ちます。
 「美しいお姫様は、普通の人と同じように“かわや”で用を足すのだろうか?・・・。」
 ある日彼は決心します。お姫様が“かわや”から出ていった後に、そっとその“かわや”に忍び込みました。
 当時の“かわや”には、広い部屋に用を足すための箱が置かれているだけのものでした。
 彼は高鳴る胸を必死に押えながら、そっと箱のふたを開けたのです。
 すると、そこには 良い香りのする一本の御香木が入っていました。』

とまあ、こんな話である。多少筆者が修飾したが・・・。 とにかく、彼女は突然御香木の話をしたのである。

「それで?」
と私は素直に聞いたが、彼女はせっかく話してあげたのに、この話の良さが分からないのかしら、と言う口調で、
「だから、美しい人は違うの!!」と一言。

落ち込みがちな入院患者を励まそうと思って話してくれたのか(それならもっと他の話しもあると思うが・・・)、それとも自分が好きな話をわざわざ打ち明けてくれたのか、まさか自分がその美しいお姫様だって言いたいんじゃ・・・。とにかく、どうも彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。こんなことになるんなら、もっと素直に喜んでおけばよかった。彼女も彼女で、突然そんなことを話したのを少し恥じらっているようだ。
こんなときは面白いもんで、本来は看護するものと看護されるものという立場であるのだが、そんな境がふっと消える。それからは2人とも、照れくさそうに笑っていたとさ。

しばらくして市川さんは結婚をした。クラシック音楽の活動などにも参加していた彼女のことだから、相手も芸術的なことが好きで、ロマンティックな、そう、例えば御香木の話しなども「それで?」などと聞くような、野暮な人ではなかったのだろう。
めでたし、めでたし。

ああ間違い・No.11/2008.2.14

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『堅い集会をしましょう!』

え、堅い集会ですか・・・。おもしろい話しとか、ジョークはいっさいなしで・・。
もしかして、神学の問題について話し合ったり、ギリシャ語本文の研究をしたりとか・・・?
え、家庭集会?
※個人の家庭を解放して、聖書の学びをしたりするのを業界用語で家庭集会と言います。

I love youから始めよう/2008.2.10

最近はいくつものブログを購読しているが、この記事はなかなか素晴らしいと思う。ちょっと引用すると、

『科学とは、「HOW(どのようにして)」ということを探求するものであるのに対して、聖書の創造の記述が私たちに語っているのは「WHO, WHAT, WHY(誰が、何を、なぜ)」である。』

『第一ペテロ3:15には「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」とあるので、私は創造に関することなども、説明を求める人がいたらちゃんと弁明できないといけないと思っていた。しかしここでペテロが言っているのは、「あなたがたのうちにある希望について」なのだ!』

アドレスを貼り付けておくので、ぜひご一読されたい。

http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20070924

唇よ、熱く君を語れ/2008.2.5

 セールスをする場合、セールスポイントが何であるかはっきりしていればいるほど、その点を強調してセールスできる。例えば、安いとか丈夫などというように。またこの品物を購入してここが良かったという口コミも今の時代大きな商品価値になるだろう。

 ではこう質問されてクリスチャンのあなたは何と答えるだろう?「あなたがクリスチャンになってここが良かった。クリスチャンである素晴らしさはこれだ!、という点を挙げてください。」

 ここでの答えが、その人のクリスチャンとしてのセールスポイントになるものだ。「あー、それなら私もクリスチャンになりたい」と思えるような答えだろうか。それとも「それなら別に必要ないや」と思われるような答えだろうか。

 自分の答えを客観的に評価し、果たして本当に魅力的なものなのかどうかを検討する必要があるだろう。なぜならその人の評価以上の信仰生活は望めないのだから。そしてこの点を明確にしなければ、セールスポイントもぼやけてしまって、何を伝えたいのかがわかりにくくなるだろう。

 私たちの旗印は明らかだろうか?クリスチャンになって、ここが素晴らしい!と熱く語れるだろうか?

第15話 学生小島/2008.1.28

「これから一週間、お世話をさせていただきます。学生の小島です。」

 彼女はそう言って微笑んだ。大学病院では、看護学生の実習として付属の看護学校の三年生がやってくる。三年生は最上級生であるから、実際の現場に出て、本物の患者さんと接し、より実際的な経験を積み、卒業に備えるわけである。とくに私のような病気の患者は、格好の対象らしく、私自身も大学病院にいる間何人もの看護学生さんに身の回りをお世話してもらった。いやお世話させてあげたと言ったほうが正しいとは思うのだが・・・。
 なにしろこの看護学生と言うのがくせもので、注射をさせようとすれば腕はぶるぶるふるえるわ、ちょっと痛い検査に立ち会ったりすれば、顔をゆがめて患者を不安におとしいれるわとなかなかに手強い。

 さて、今回私の担当になった小島さんは、そんな不安を与えるような人ではなく、看護も堂々としていて、こちらも安心して任せておくことができる。おまけに飛び切りの美人ときている。どのぐらい美人だったかというと、同室の高橋君が一目惚れしてしまい、隣のベットの清水さんは
「あれ可愛いねぇ。」
と溜め息をもらしたほどの美人である。

 もちろん私だってそんな美人に看護してもらって悪い気がするはずもない。沈みがちな病院生活に突如として見目麗しい白衣の天使が舞い降りてきたのだ。いつもは早く退院したいと思っているくせに、こんなときには入院していて良かったとすら思うのだから、全くもって始末におえない。

 もとい。それから数日間、看護を受けながら小島さんと色々なことを話した。私がクリスチャンだということも、彼女が私と同じぐらいの弟がいること、どうして看護婦になろうとしたのかなど、話題がつきることはなかった。

 そんなある日、私が歯科の検診に出かけることになった。私の病棟は七階、歯科は二階である。私を車椅子に乗せて、小島さんがエレベーターに乗り込む。二階に着いてエレベーターを降りると、そこから長い廊下が続いている。秋から冬へと変わり始めているひざしの中を小島さんが押す車椅子がゆっくりと進んでいく。二人ともいつ終わるともない長い廊下の先の方を見ながら、しばらく雑談をしていたが、ふと話が一瞬途絶えた。

とその時、小島さんが
「多胡君がこんなふうに病気になっても、明るさを持っていられるのは、
 やっぱり多胡君がクリスチャンだからかな・・・ ・。」
と普段の明るい声で、しかしはっきり何かを感じさせる言い方で、私の肩越しに聞いてきた。いきなりの質問にあわを食ってしまったのは私のほうである。
「えっ・・・・。」
とほんの一瞬 間をあけてしまった。

 自分がクリスチャンだから明るいって?クリスチャンだからこんな状態でもいられるって?はたして本当にそうなのだろうか。今までそんなこと考えたこともなかったな・・・。いや、クリスチャンだから明るいっていうのは間違いじゃないぞ、うん。クリスチャンがどんな困難に置かれても平安があるっていう証しもたくさん聞いた。でも、自分はどうなんだろう。こういうときに限って、あ あのときのあの罪、あ あのときはあんなことをしてしまったなぁ・・・なんてことばかり思い出す。それにしても、車椅子の肩越しなんて、ずるいなぁ・・何てったって顔が見えないんだもの。相手の反応がわかりゃしない・・・。

「うん、でも自分はいい加減なクリスチャンだから・・・。
 私なんかよりちゃんとしてるクリスチャンの人はたくさんいるし・・・。」
 なんと情けない、これが私が小島さんに言った答えであった。そうです!私はクリスチャンだから、このような状況でも喜んでいられるんですよ、と胸を張って言えなかったのである。こんなふうにしか言えなかった経験のある人は少ないだろうと思うが、半分は本当に自分のいい加減さを思い、そしてもう半分は自分がそんなふうに見られていることが本当に主の力かどうかはっきり分からなかったというのが正直なところだ。いやもしかするとただ責任逃れをしたかったのかも知れないな。とにかく私は小島さんの問いに対する答えを持っていなかった。

 私に目を留めないで、主に目を向けてくださいとはよく聞く言葉である。しかし私を見て、私のうちにおられる主を見てくださいと言えなければだめだと言う言葉も聞く。どちらももっともな意見であり、本質的には違いがないと思うのだが、なかなかそのバランスをとっていくのは難しいことだと思う。もっとも私のように自分を見てしまっていたのではそれ以前の問題だけれど・・・。

 一週間の研修が終わり、小島さんも他の病棟に移っていくことになった。最後に小島さんが
「日常生活について 学生小島」と題した手作りのノートをくれた。そこには十数項目に及ぶ日常生活における注意が書いてあり、そして最後にこう書いてあった。

「以上のようなことに気を付ければ、あとは普通に生活ができます。
 多胡君スマイルで元気いっぱいです!」
・・・なんだかずいぶん色々なことを考えさせてもらった小島さんとの出会いであった。

ああ間違い・No.10

私が以前勤めていた某キリスト教宣教師のための日本語学校で、宣教師の方たちが日本語学校や教会や日本人と話しているときに間違えて使ってしまった日本語を集めてみました。えっ? 宣教師に失礼ですって?でも、その宣教師の方たちに作るように勧められたんですけど・・・。ホームページ時代の人気コーナーがブログで復活です。
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『ここで殺してください!』

バスを降りようとした宣教師の方が、運転手の人に向かっていった言葉。
「ここで降ろしてください」が正解。
言われた運転手の人は、さぞびっくりしたことでしょう。

第14話 片腕の少年/2008.1.10

 私の入院していた西混合病棟七階から、エレベーターで一階まで一気に降りると、そこから大学病院の中で一番長い廊下がのびている。エレベーターを降りると、すぐレストランがあり、ついで外科病棟への入り口がある。それから売店があって、他の病棟に行くバイパスがある。そして、放射線科があり、外来へと続き、おもてに出る。ざっと100メートル以上はあろうかと思われる。

 治療と治療のあいまの比較的からだが楽なときに、私はエレベーターを降りてすぐのところにある自動販売機にでかけては、コーヒーを一杯飲むのが好きだった。自動販売機のかたわらにある長椅子にすわって、熱いコーヒーを飲みながら行き交うたくさんの人を見ていると、そこには病室の中にはない人間の動きが感じられた。病室の中と外の世界とでは、全く流れている時間が違う、同じ一つの世界の中にあってどうしてなのだろう。

「ばかやろう。!」
 私のそんなセンチメンタルな考えをその声はぶち破った。すわ何事か、と思って声のするほうに目を向けると外科病棟の入り口にある公衆電話からであった。まだ中学生ぐらいだろうか、やせている少年だった。とにかく言葉遣いがひどい。話の様子から見るとどうも家族の、それも両親と話しているようだったが、けんかでもしているようである。内容は彼の両親が今度病院に来るときに持ってきてもらいたいものについての話だったようだが、あれぞ罵声という言葉遣いだった。しかも叫ぶように大きい声で話しているので、回りに響く響く。廊下を行き交う人もなんだこいつは、という目で通っていく。

 よく見ると彼には左腕がない。中学生ぐらいで、外科病棟に入院していて、しかも片腕がない。髪の毛も抜けてしまっていて、帽子をかぶっているのは多分薬のせいだ。となれば、おそらく彼の病気は骨肉腫のような病気なのだろう。まだ中学生ぐらいの若さで、思ってもみなかったような病気によって片腕を奪われてしまったその気持ちは、いかばかりのものか・・・。その気持ちが、両親にむかってのあの厳しい、そして激しい言葉になって出ているのだろう。その言葉を聞かれている御両親の気持ちも、これもまた言葉に表わすことのできない切なさであったろう。なぜなら、強く叫ぶようなその声は、こう言っているようにしか聞こえなかった。
「なぜ俺を産んだんだ!なぜ片腕を切り取られなければならないような体に産んだんだ!
 何で俺は生まれてきたんだ!」と。

 そしてその声は、私に向かってもこう言ってきた。
「神がいるなら、なんで俺はこんなふうに生まれたんだ!」と。

 私はその声に対する答えを、そのとき持っていなかった。私だって、他の人から見ればあの少年となんら変わらない状況なのだ。髪の毛は抜け落ち、病気もこれからどうなるかわからない。どうしてそんな痛みを。どうしてこんな苦しみを。

 もちろん、今すぐに簡単に答えを出せる質問ではないのかも知れない。すべてのことは天の御国に行かなければ、わからないことだ。もちろん、一人一人の様々な状況にあった対応を神はしてくださるはずだ。ただ今は、一つだけ、彼にこう言えるだろう。それは、生まれてこなければ、私達はキリストに出会うことはなかった、もし生まれなければ、私達は永久にこの素晴らしい御方とめぐりあうことは出来なかったのだ、ということを。

 どんなに苦しくても、その状況が理解できない理不尽な痛みに満ちていても、生まれてきたことによって、私達はキリストに出会うことができるようになったのだ。それは、生まれてこないことにくらべたら、御自分の命をかけて、愛してくださる方に、めぐりあえないことに比べたら、素晴らしいことではないだろうか。私たちは生まれたことによって、このお方とめぐりあえるチャンスをいただいたのだから。
あなたにいのちが与えられたのは、愛されている証拠なのだから。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」(聖書 ヨハネ15:9)

この聖書の言葉を覚えてほしい。
神は私達を被造物の最高のものだから、創られたものの中で一番良いものだから愛する、という愛ではなくて、父なる神がイエス・キリストを愛されたように、同じ愛で愛してくださるのである。